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コミットメントの行きつく先は~村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』~

村上のいう「コミットメント」(他者とかかわっていくこと)の行きつく先が「暴力」なのだろうか、大いに困惑させられるのが、この『ねじまき鳥クロニクル』(1994年)である。
なにかをきっかけに日常生活のあるべき秩序が壊され、それを取り戻す旅に出るというのが、村上の一貫したテーマである。しかしこの作品において、村上は、「暴力」という方法であるべき姿を取り戻すという結論に至る。具体的には義理の兄を意識下で撲殺する。
初期の村上は一種の離人感、つまり現実に対する希薄感への苦しみを表現している。そこから「羊をめぐる冒険」や「ダンス・ダンス・ダンス」を経て、とにかく今いる人間(『ダンス・ダンス・ダンス』ならばユミヨシさん)と生きることで、現実感を取り戻そうという姿勢をみせる。
ところがこの『ねじまき鳥クロニクル』では、暴力が中心に据えられている。序盤から吐露している義理の兄への憎しみを読むと、『羊をめぐる冒険』からはずいぶん遠くまできてしまったなあと思う。そして意識上だか意識下だかわからないが、憎しみの対象を撲殺するというのも非常に困惑する。
倫理を持ち出すのは下世話かもしれないが、笠原メイはボーイフレンドを、クミコは兄を殺しているわけであるが、小説として是認されているのも気がかりである。
ただし、この作品が出来が悪いと言っているのでは決してない。肉体的な死の描写が非常にうまい。満州の山本の羊をさばくように描かれる死の描写はとてもリアリスティックである。笠原メイの死のイメージを非常にうまく現実化している。
しかし、村上は、現実感を、加納クレタのような「痛み」、この小説でたびたび描かれる「暴力」によって、表現しようと試みたのだろうか。以後、「海辺のカフカ」「1Q84」「騎士団長殺し」を通じて、暴力が村上の大きなテーマとなっていく。

『ねじまき鳥クロニクル』には多くの暴力が出てくるが、一番印象的なのは、ストーリーの本筋ではないのにも関わらず、ノモンハン前夜に蒙古人に皮を剥がれる山本の描写であろう。両腕、両脚の皮を剥がれ、性器と睾丸を切り取り、耳をそぎ落とし、頭と顔を剥ぎ、最後は乳首も着いた皮一枚に剥ぎ落とす。路地の庭の女の子・笠原メイが序盤に述べる死のイメージを具体化している。
まぎれもない暴力である。しかしこの暴力には、暴力を行う側の感情が欠落している。怒りとか憎しみとか、逆に猟奇的な悦びも存在しない。だから、暴力には、理由がない。正義の鉄槌でもなければ、憎しみの表現でもなければ、猟奇的な悦びでもない。だから結局、蛙の解剖のような表現になる。
誤解しないでいただきたいのは、そのことを決して批判しているのではない。感情もそぎ落とした純粋たる死のイメージを、村上は追求したのだ。大江健三郎に小説に社会的な意義を見出すべきだと批判されるのはそういうところだろうが、死のイメージを「桃の皮を剥ぐように」描写しなくてはいけない理由が、村上にはあったのだろう。

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