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中国・浙江省のおもいでvol,21

『異邦人』

  雨が再び土を湿らせる。すると、思い出したように霞が空気を満たしていく。校舎の玄関は開いた傘で扉を囲まれていた。中国の大学に傘立てがないのである。色とりどりの傘は、雨の日に映える紫陽花のように、鮮やかな景観を見せてくれる。

 「よし。今日は中国人学生に、週末の出来事を日本語で話してもらおう。一つだけ注文がある。面白く語ってくれ」

 例の癖が強い教師、ガンティエン(岡田)がしたり顔で二人の生徒を指名した。この男、一昨日、ぼくとOを泥酔させた張本人である。本人にはまったっくもって悪びれたところがない。和食の恩義さえなければ、食って掛かっていたのだが…。

 「ありがとう。まあまあ面白かったが、日本語の方はまだまだだぞ。今日も幸い日本人学生が多くいる。日本人は中国語、中国人は日本語でワークに取り組みなさい。」

 前回のグループのままだったので再びザオとワークをすることになった。この前約束していた、飲み会のセッティングが出来ていなかったため気が引けた、というかもうアルコールを摂取したくない…。

 「タイチ。聞いたよぉ。岡田先生たちと飲みに行ってつぶれたってぇ。」

 ザオの隣に座っている、中国人男子学生は一昨日、「古河」で一緒になった学生だった。名前は確か「ユン」と言ったか。泥酔したこと、さらにはフェイの部屋に泊まったことさえばれているかもしれない。

 「ザオ。岡田先生はいつもああなのかい?」

 無理やり話題をずらす作戦にでた。ザオのニヤニヤは止まらないどころか、楽しくて仕方ないといった感じだ。

 「話をすり替えないでよ。それで、君はその後何処へ泊まったんだい?」

 だめだ…。完全にばれている。申し訳なさそうにうつむいてるユンの顔を恨めしそうに見つめる。

 「ザオ。その話は頼むから伏せておいてくれ。僕以外に迷惑がかかるから。」

 「じゃあ、後でどこに泊まったか教えてね」

 渋々了解する。こうなったら止まらない性格なのだ。日本人の女性がしなやかな強さなら、中国語の女性の強さはとがった強さといったところである。

 ✒︎ ✒︎ ✒︎✒

 ワークを終えると、早速、俳優にとびつくパパラッチのようにザオが粘着してくる。

 「女子寮に泊まったの⁉︎」

 大声を出しそうなザオの口に無理やり手で蓋をして、外へと連れ出した。

 「君本当に、大胆だねぇ。私でさえ、男連れ込むのは余程じゃないとしないよ。あ、君じゃなくて、フェイか。」

 フェイごめん…。心の中で謝罪しながら、ザオに口止めする。

 「君の好みの日本人学生を連れてくるから、この一件は伏せておいて。お願いだから。」

 当然のことよ。というふうに頷くと、シーッというジェスチャーを返してくる。このザオと付き合う男は大変だろうなぁと感じたのは、秘密だが。

 「じゃあ、木曜の合同授業が終わったらそのまま繰り出そう。Oをしっかりと連れてくるのよ。」

 Oだけ指名したのにはどんな意味があるのかと疑問に感じたが、秘密を守る約束を取り付けたことに満足して、帰路についた。 

  異国での生活は、短期留学による過密スケジュールによって心も身体も麻痺していたようだった。心に身体が置いてけぼりにされたような感覚。ようやく身体が思い出したように疲労感を訴え始めていた。とにかく、あのマシンガンのような授業を何とかしなければならない。予習で先回りすればついていけるだろうか。

「O。合同授業で一緒になった紫の髪の子、ザオっていうんだけど。Oと数人で飲み会に行こうって誘われてるんだ。木曜日はあいてるかい?」

「もちろん、あいてるとも。しっかし、タイチも隅に置けないなぁ。1週間もしないうちに合コンを取り付けるなんて。それに、食堂ですれ違った別嬪さんにも声かけられてたしなぁ。」

 食堂ですれ違った女の子…。教室でぼくのノートを盗み見ていた女の子だ。西湖にかかった霞のように、彼女の顔をハッキリと思い出すことができない。彼女はすれ違いざまに「cheer up(元気だして)」と言ったのだった。

 中国語に日本語、それに英語が頭の中で濁流のように、氾濫していた。教室では、同国の学生同士の母国語によるコミュニケーションも行きかっている。自分は、ここでは一人の、ちっぽけなただの異邦人なのだ。今度会ったら彼女に話しかけよう。なにも怖がったり、恐れたりする必要はない。

 ぼくは彼女の名前さえ知らないのだった。(『中国・浙江省のおもいでvol,21』「異邦人」)



 


 




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