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【小説】中国・浙江省のおもいでvol,33

『湖の精霊』

「体調は良くなった?」

珍しく遅刻せずにやってきたショーパンと中庭でばったり出会い、広大なキャンパスを歩いて渡る。マトリョーシカのように大小並ぶ雲が、今にも雨を降らせようとうずいていた。

「おかげさまで。ショーパンはこの休日何をしていたの?」

控え目なメイクでも、ハッとするほど綺麗な容姿を持つショーパンだが、ジーパンにダボダボになったロングTシャツという、部屋着のような恰好をしてくる。

「土曜日は西湖に行って来て、日曜日は部屋で勉強してたは。そっちは?」

「土曜日は蘇州大運河でナイトクルージング、日曜日は部屋で勉強。」

「日本人の子供は真似するのが好きなのね」

「カザフスタン人のレディーは随分と優雅な休日の過ごし方をなされたようで」

「あなたよりは大人ってことね。まあ、レディーと呼ばれるにはまだ10年早いわ。でもね、西湖すごくよかった。既視感、どこか懐かしさのある、不思議な気持ちを感じたの」

西湖を思い出すとき、どんな人でも同じ表情を顔い浮かべるのかもしれない。白いベールに包まれた、対岸までの途方もない水路の先に見える水平線。そこでは、太陽の光でさえ、さすのではなく佇んでいる。

彼女の細めた遠い目に映る、西湖の残像を想像する。当然西湖を思い出すと、フェイの顔が条件反射的に浮かんでくる。

「そういえば、友達といったの?」

「いいえ、ひとりよ。誰かと一緒だったら、心ゆくまで景観を楽しめないでしょう?」

当たり前のことを聞くのね。そう言って可笑しそうに笑う彼女は、綺麗というより、人として憧れた。

「きっと西湖に映えていたんだろうね」

ひとり湖面にこぎ出す彼女を想像する。周りはとても静かで、水面はそっと彼女を映し出す。だれにも邪魔されず、だれをも邪魔せず、ひとり西湖に溶け込む彼女を、遠くの人は湖の精霊かと疑う。彼女はそんなことをつゆ知らず、西湖を堪能している。

「帰っておいで」

クスクス笑いながら、ポンポンと頭を叩かれて我に返る。気がつく教室の目の前に付いていた。彼女にはきっと弟がいるのだろう、そう考えた。からかうときやこうしたちょっとしたボディタッチに、下の妹弟を持つ上の子特有の慣れを感じた。

冷気の立ち込めた教室には、まだ誰も来ておらず、ぼくとショーパンの二人きりだった。

「あなたって不思議ね。私よりもきっと年下なのに、年代特有のはしゃいだ感じとか浮つきがないところとかが年不相応よ」

久しぶりに英語を使っているので、聞き取りに全注意を向けていたとは言えず、謙遜で返すことにした。

「20歳を超えたら、みんなこんなものじゃないかな」

「ハイハイ、背伸びしちゃって。私が17歳なんだから、あなたのその顔で20を超えているは無理があるわよ」

 ニコニコと微笑みながら、頭をポンポンされていると、まぁいっかと、年齢をはっきりと伝えずに終わってしまった。それに、年齢で備えておかなければならないような知性や人間性など、ぼくにはよくわからなかった。

 ぼくの中の時間はこうしてどんどん過ぎてゆくのに、心が追いついて行かない。

 彼女は、心と体が美しく調和を取れているように思える。年下の姉と考えれば、すっきりと府に落ちた。

 教室は、寝不足の学生たちで、込み合い始め、月曜日のストレスやら、1週間の疲れやらをそこかしこに巻き散らかしていた。

「授業が終わったら、ノートを貸してあげるね。あなた、この前休んでいたでしょう?」

「とても助かるよ。ありがとう」

授業が始まってからも、西湖の景観が頭に浮かんで離れてくれなかった。隣に座る異国の人に、聞きたいことがたくさんあった。

どんな生き方をしてきたの?夏と冬ならどちらが好き?家族はどんな人たち?ペットは?将来の展望は?良い思い出は?

気づくと、ノートにはみっともなく尾を引いた漢字が、いくつか並んでいた。(中国・浙江省のおもいでvol,33『湖の精霊』)








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