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【小説】中国・浙江省のおもいでvol,30

『瞳に灯り』

 「ルールはあっても、モラルはない。日本語にしたらそんなとこかなぁ」

 車内での通話に顔をしかめる人もいなければ、注意する人もいない。電車に乗るすべての人がこうした喧騒になれきっているようだった。肘や肩がぶつかってももめ事ひとつおこらない。

 外でも同じだ。クラクションが挨拶代わりにならされるので、誰も驚いたりしない。それでは駄目なのでは…とも感じるのだが。

 「でも全然困ってる感じはしないよな。これじゃ日本は神経質だとおもわれても仕方ないね」

Oとフェイ、ぼくにワン。久々の4人は10年来の友人のように、しっくりと馴染む。4ピースしかない、子供用の小さなパズルの大きなピース。大きいからなくならないし、なくなってもすぐに見つかるところが気に入っている。そうワンに言うと

「乙女だね、おまえさん」

相も変わらず、おかしな日本語を使っているので笑ってしまった。

乗車してから40分ほどで、蘇州運河を要する街に着く。降りると、フワッとしたあたたかい微風が4人の頬を撫でた。黒い雨雲の切れ目に青が覗き、不自然な明るさを演出している。まるで、待ちくたびれた春がひょっこり出てきてしまったような天気だ。

 石畳の道路の両側には、花屋や雑貨店が並び、街並みはうんと綺麗に変わった。細い水路が張り巡らされたら蘇州は紹興の水路よりも、しっかりと整備されており、生活の匂いがお洒落な街に溶け込んでいた。道行く人も心なしか小綺麗な服装をしている。商店通りへ歩き、遅めのお昼をとることにした。

「まさか。こんなに旨いなんて」

 Oは最中ともカステラとも言えない包みモノを食べて絶句していた。もらって食べると確かに美味しかった。そんな風に食べ歩いてみると国や言語の壁が次々に崩れてゆくのを感じる。焼き栗や、小籠包、タピオカにお茶。煎餅のような揚げ物に包みモノ。色々なお土産が並び、修学旅行で訪れた京都を思い出した。

「これあげるよ」

 フェイがぼくとOに、黒い四角の食べ物をくれた。プラスチックの容器をあけると、ツンと鼻を刺すような匂いがした。試験管に入ったアンモニアのような激臭に、珍しいもの好きのOもお手上げだった。

「フェイ…この黒いのは何?」

「臭豆腐だよ!すごい美味しいんだよ?」

 珍味を期待して口に入れてみた。驚いた。匂いどおりのきつい味だったので二人して容器に吐き出した。フェイはニヤニヤしながら感想を聞いて、ワンは背を向けて肩を震わせていた。

 日が落ちはじめ、軒先にかかるひし形の提灯がともり始めた。一斉にではなく、まばらに。考えてもみれば、ここは住宅も並んでいるわけで、イルミネーションのようなライトアップとは異なる。住む人のための灯りがこうして、道行く人に美しい景観を見せる。不完全だから、二度と同じ景観は見れない。

 日が沈みきる直前にクルーズ船は出向する。幸い、雨はまだ降ってこない。船着き場までの道を、灯り始めた街灯と軒先の提灯に照らされながら進む。オレンジ色と、紅に染め上げられてく道を、ずっと歩いていたいと思った。

彼女が振り返り、瞳に灯りが差し込む。それは万華鏡のように光輝いていた。(中国・浙江省のおもいでvol,30『瞳に灯り』)


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