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中国・浙江省のおもいでvol,23

『name』

 「就是这么回事。你不要迟到。(つまりこういうことです。遅刻するなってね。)」

 3日目にして、マシンガンのような授業に何とか順応し始めることができた。ウォークマンの倍速機能全開といった中国語の授業は、なれると毎回に落ちがあってかなり面白い。今日の授業は、毎回のように平気で遅刻してくる外国人学生に対して、警告の意味を込めた内容が展開された。

 今日も彼女には会えずじまいかと、あきらめていると、開始から15分ほどで彼女が入室してきた。それぞれの外国人留学生は同国の学生同士で席についてるため、僕の隣は両方とも開いていたのだ。彼女は自然と僕の隣に座り、ノートを取り始める。

 「ごめん、ちょっとノートを見せてくれる?」

 展開の早いアクション映画のような授業は15分も経てば、追いつくのに困難を極める。ノートを見せてあげると、彼女は驚いたように僕の顔を見て微笑んだ。一昨日は穴だらけだったノートの変わりように彼女もびっくりしたようだ。

 休憩時間、ぼくは、彼女とやっと話すことができた。

 彼女はカザフスタン人で、名前をショーパンといった。アジア人の色白とは比較にならない程の純白な肌は、マイナス何十度の北の地を連想させる。高い鼻に、くっきりとした眉は、身分の高そうな家庭の女性という印象を受ける。大きな瞳だけが、近寄りがたい美しさとは逆の人なっつこさを醸し出していた。

 「あなたは、アジアの人でしょう。そうね・・・・韓国人?」

 外国人から見たら、日本人と中国人、それに韓国人の見分けがつかないらしい。「日本人だよ」と答えると、彼女は喜んだ。日本のアニメが好きなのだという。残念なことに、彼女の挙げたアニメはどれもぼくのしらないものばかりだった。

 彼女は基本的に英語でしゃべるので、英語が堪能ではないぼくは、何度か「ゆっくり」といって聞き返さなければならなかった。ぼくは聞き取りにこまると「ちょっと待って」といったが、彼女の唯一覚えている日本語が「ちょっと待って」(彼女の好きな日本アニメの常套句)だったらしく、ぼくが言うたびに、オウム返しのように「ちょっと待って」と嬉しそうに繰り返した。

 「明日も話しましょう」

 「君が遅刻しないで、隣の席が空いていたらね。」

 「あなたの隣はいつも開いているでしょう?」

 お互いに笑い合って、教室を後にした。

 外は相変わらずの雨で、相変わらずの霞がかかっていたが、ぼくの気持ちは晴れやかだった。日本にいたとき、つとめて人と関わることを避けてきたぼくにとって、健全な人間関係を作るための第一歩ー名前を聞くことは気恥ずかしく、またささやかな喜びに満ちていた。

 「名前を尋ねること」つまり、「あなたのことを知りたい」という願望。そんな人間にとってごく自然な行為をもう何年も怠ってきたのかと思うと、不思議な感じがした。どんどん開放的になってゆく自分に、自分が作ってしまった、自分の人間像が少しづつ壊れてゆく感覚は小さなころの入学式を思い出させた。

✒︎✒︎✒︎✒︎
 Oと食堂に行くと、フェイとワン、それにシーと顔を合わせた。今日は、フェイの案内で午後を紹興市へ行く予定になっている。紹興はぼくのどうしても行ってみたい場所があった。魯迅の生家である。

 文化大革命を迎える、第二次世界大戦前の中国を舞台に活躍した「魯迅」。魯迅の幼い頃を綴った『野草』は、何度読んでもぼくの心に暗い影を落とした。

 「紹興は若い人向けの観光地じゃないよ?」

 フェイが確認の意を込めて、ぼくとOに尋ねる。

 「大丈夫。俺は紹興酒を拝みに行きたいだけだから。タイチは年寄り臭いところあるかるから全然平気だと思うよ。」

 Oはワンと酒の話しで盛り上がりながらタンメンをすすっている。「紹興酒ならぼくも楽しみにしてるさ」と反論しつつ、紹興に思いを馳せる。

 フェイはそんなぼくの思案顔を見て、シーとニヤニヤ笑っていた。トントンとシーがぼくの肩を叩いて耳打ちする。

 「フェイが女装の感想を聞きたいってさ」

 みるみるうちに顔が熱くなる。女子寮から抜け出すのに女装をしたこと、女装した服を返すことをすっかり失念していたのだ。

 ワンとOは西湖で大失態を犯してるのにもかかわらず、はしゃぎ回ってる。

 「今日も長い夜になりそうだなぁ」

 フェイたちとなら、それもいいか。窓に映ったぼくたちはとても幸せそうに見えた。(「中国・浙江省のおもいでvol.23」『name』)


 







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