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【小説】中国・浙江省のおもいでvol,29

『冷たくて優しい』

「キッチンって知ってる?」

 聞かれて手に取ったその本は古本に特有の匂いがした。吉本バナナのキッチン。なんで中国の北京や上海ではなく浙江省にあるんだろう。

 首をかしげつつも、何度も読み直した物語を頭に描く。久々の日本語に触れたせいか、ちょっとした帰国のようだった。

「知ってるよ。とっても素敵な話だから、読んでみて」

 嬉しそうな顔のフェイが早速、目細めながら文字を追いかけている。

「ねぇ、ここ中国語でなんて?」

 光沢のない、ひび割れた表紙に、文庫本の背表紙の半分も届かない小さな指が掴みにくそうに本を支えていた。

 自分が何度も読んだ物語を、異国の人が見る。ぼくはぼくで、趙愛林の小説を読んでいた。こちらは、フェイのバイブルでもある。

 冷たい長椅子にもたれかかって、二人して本を読みふけった。東方言語棟は図書館本館から切り離された別館になっており、区立図書館サイズのこぢんまりとした棟だ。

 そこには、日本語の書籍が神保町の古書店街よろしく、所狭しと積まれている。

「反則だよ。せっかく留学してるのに、日本語ばっかり読んじゃってさ」

「しかたないよ。だって、ここ日本語の本ばっかりじゃない」

 途中の商店で買った紅茶をすすりながら、ページをめくった。合同授業に出ようとしたら、ガンティエン(岡田先生)にまだ休んでいろと追い返されたのだった。眠気が襲ってきたので、そのまま寝てしまうことにした。開いた傘たちが鮮やかに咲き誇っているのを夢に見た。

 小降りになってきた雨の跳ねる音とフェイがページをめくる音が心地の良いBGMとなって耳に響いている。狭くて、静かで、冷たくて。そこはとても優しい図書室だと思ったのだ。



 

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