中国・浙江省のおもいでvol,22
『帰り道』
「大家,今天下课。(皆さん今日の授業を終わります。)」
窓際の席はいっそう冷え込んでいる。教室をにぎわす外国人学生たちのは、それぞれ厚手のコートやマフラーなどを着込んでいて、手袋をはめたまま授業に参加していたのだ。誰もいなくなった教室に一人ポツンとぼくは座っていた。
その日、いくら経っても、教室にあの子は来なかった。付近の住民に開放されているキャンパスの裏庭には、数人の小さな女の子がカッパを来て遊んでいる。子どもの時、わけも分からないさみしさに襲われることはなかったのだが…。黄色や赤のカッパが雨の中を行ったり来たりするのを見てると、突然さみしさがこみ上げてきた。
普段はOと学内の食堂へ行くのだが、今日は一人で昼食を取りたかった。寂しい時、悲しい時、誰かといると、余計に悪化するのである。一人で粛々と物想いに耽れる場所へ行きたい。学生たちので賑わっている南門とは逆の北門に足が自然と向かっていた。
北門の外は、学生街とは異なり、大学の関係者はほとんど来ない。小さな整備工場や八百屋、文房具店、小料理屋、雑貨屋などが家々の間に挟まっている。日本の商店街と違うのは、近くに住む住民以外が店を利用することを考えていない点だった。ぼくが、狭い路地やボロボロになった家の前を通るとき、まるで珍しい鳥を見るような顔つきでジロジロと見られた。
「福家」と看板のでた、料理屋を見つけてガラス張りの扉を開けた。狭い店内では、円卓に腰掛けて食事をする夫婦の他に人はいない。
「不好意思。我想吃米饭。(すみません。ご飯を食べたいのですが)」
「好啊!请坐!(どうぞ!座って下さい!)」
座っていた夫婦は店の主人と奥さんだった。お昼を邪魔してしまって申し訳ないとは思ったが、嫌な顔一つ見せない夫婦の優しい目を見て安心した。
テーブルの上に、白湯とピーナッツの小皿が運ばれる。麻婆豆腐にトマトと卵の炒め物を注文して、白湯に口をつける。冷えた体が徐々に落ち着いていった。短い掛け声の後、中華鍋を振る主人の剛腕が暖簾から伺うことができる。厨房からじゅぅじゅぅと具材が鉄鍋ではぜる音が聞こえてきた。麻婆豆腐のぴりりとした香りが鼻先をくすぐる。
僕という人間は本当につまらないことがキッカケで落ちんで、簡単に立ち直る。湯気の中に、赤いルビーのような餡のかけられた、麻婆豆腐が顔をのぞかせていた。
一口すする。あまりの辛さの舌の両端が激しくい痛むと同時に、すぐ2口を運ぶ。辛さの後にやってくる旨味は、爆発的なものだった。飲み物も白湯だったので、滝のような汗をかいた。辛くて口をハフハフさせながら食べる姿は面白おかしく見えたらしい。注文を取ってくれた奥さんが片言の日本語で尋ねてくる。
「アナタハニホンジン?」
中国料理は中国全域で辛いというわけではないのだ。南部の浙江省は甘い味つけが中心で、中部、北部と辛さを増してゆく。だから、浙江省の麻婆豆腐が辛くてたまらないといったぼくは、外国人だとすぐわかる。
「我是日本的留学生。(私は日本人留学生です)」
彼女は日本で半年ほど、働いていた。日本で中華料理を振る舞うと、玉のような汗をかき、「辛い旨い」と日本の友人たちが食べてたらしい。ぼくの前の席に腰を下ろした彼女は、目を細めてぼくが食べるのを見て、談笑した。
「ワタシモサミシトキ、タベル。サミシナクナル。」
日本へ就労ビザで入国していた彼女も、慣れない日本で一人、奮闘していた。ぼくは留学で、彼女は就労のための渡航だから、状況は変わるのだが。
店を出るころには、奥さんとすっかり意気投合していた。次は白湯ではなく冷水を出すと約束して雨の中をホテルへ引き返した。
相変わらずの雨だったが、もう冷たくはなかった。お腹に暖かい生き物をだき抱えているような、暖かい帰り道だった。(「中国・浙江省のおもいでvol,22「帰り道」)
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