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【読書】泥の河 宮本輝(感想と考察)

 太宰治賞を受賞した『泥の河』を初めて読みました。創作や物語と言った物語というよりも、本当に登場人物たちが生きたときを現実から切り抜いたような、ノンフィクションのような話しだったのが印象的です。

 小さい頃(幼かった頃)、自分の目に映っていた世界や、大人たち、自分自身への感覚は消えてなくなってしまうとばかり思っていたのが、『泥の河』を読んだ途端に、フワッと、雨に当てられたアスファルトが匂いたつような感覚を受けたのです。

 本書のどこに、鮮やかな「記憶再生装置」が秘められているのかを探るべく、心を動かされた箇所への感想と考察を書き留めておきたいと思います。

あらすじ

「信夫」は昭和30年の大坂で、河べりにうどん屋を構える、父と母の息子だった。昭和20年の終戦後から10年、日本は未だ戦争の傷跡が生傷のように癒えないでいた。人も同じで、身体に銃弾の後がある者や身体の一部を失ってしまった人も大勢いた。信雄の父の身体にも戦争の傷跡が残っていた。
 馬を引いてうどん屋を訪れる友人がいた。戦争を終えた兵士たちも、日々の生活のために奮闘していたのだ。鉄屑を積んだ荷車は、坂道を上がれずに友人は即死してしまう。銃弾行きかう戦場を生き抜いた人にも、「死」は突然にやって来るのであった。
 事故現場をまざまざと見つめる少年がいた。信雄が仲良くなった、「きっちゃん」である。きっちゃんには銀子という姉と、水商売を営む母がいた。川に浮ぶ船は母の仕事場であり、きっちゃん一家の住む家だった。
 きっちゃんと仲良くなった信雄は、次第にきっちゃんの家に遊びに行くようになり、母の仕事を知ることになる。女という性は少年の信雄にとって、未知であり、畏怖の対象だった。
 縁日の夜、信雄の父からお金を貰ったきっちゃんと信雄は目当てのロケットを、二人のお金を合わせて買う約束をしていた。お金をもったことなどなかったきっちゃんは、屋台のものをしきりに買おうとする。ついには仲違いしてはぐれてしまう二人だった。
 再会した時、お金はすべてなくなっていた。きっちゃんのポッケトは両方とも穴が開いていたのだった。仲直りのしるしにきっちゃんの家にあるお手製の蟹の巣を案内されると、きっちゃんはカニに油を付けて、火を付けた。青白いカニがちりじりになって照らしたの母のなまめかしい姿だった。怖くなった信雄は泣き出し、家から逃げるようにして家に帰った。
 母親の喘息治療のために、新潟へ引っ越すことになった信雄は、きっちゃんに謝罪をしたかった。しかし、きっちゃんと出会うことはできなかった。


生と死

なぁ、のぶちゃん。一生懸命生きて来て、人間死ぬいうたら、ほんまにかすみたいな死に方するもんや。

 激しい戦場を生き抜いてきた人でさえ、些細なことで死んでしまう。「死」は年を取ったから死ぬや、病気になったから死ぬなどの理屈では到底割り切ることのできないという描写にぞっとしました。若くてなくなったり、大病1つしたことのない人が突然亡くなる。「死」には数字や時間のように、筋だったものがないことを告げる一文。

他人の家

船の家と、姉弟の遠い姿は、自分の家の明るさとはまったく正反対な、それでいて得体の知れない不思議な力で、信雄の惹きつけてくるのであった。

 他人の家。それは、子供にとっては未知で遠い存在だったことを僕自身よく覚えています。家には生活の気配があって、隠すことのできない現実がある。きっちゃんと銀子は、学校へも行けず、母親の水商売で一家は生計を立てていた。だから、世間的に見れば、水商売という蔑まれる仕事でも、きっちゃんたちにすれば、そこに文句も批判もつけようがない。そんな現実が「船の家」には流れています。

 大人たちにとっての現実が、子供にとってどう映るのか。信雄の目線は、「こういうものなんだ」と割り切ってしまった、読んでいる僕の考え方に波紋を呼び起こすのです。

銀子に透ける、喜一一家

銀子だけは表情を崩さなかった。そそくさと着替えると、きれいに貞子に洋服を返した。

 10歳にもなろう銀子が身に着けていたのは、きたない下着1つでした。胸を痛めた信雄の母親「貞子」が、サイズの合わなくなったワンピースを銀子に上げようとするシーンです。

 銀子はもらわなかった。それどころか、信雄の家「柳家」をせっせと手伝い始めます。よくよく考えたら、「ワンピース」を貰った、銀子の母親はどう感じるかを想像して断ったのではないかなと感じました。うちでは、きちんとした洋服を買えないのに、よそ様の家で施しを受ける。それは、母手1つで一家を支えている母親への侮辱になるのではと感じたのだと思います。

 10歳そこらの女の子が、家族のためを思う。そんな環境をしいたのは、母でもなければ死んでしまった父親でもない。どこに向けたらいいかわからない理不尽に満ちた世界を感じます。戦争を知らない僕たちの感じる理不尽とは次元が違うのだろうけれど。

暴力にあらがうには

喜一がいじめられ馬鹿にされたことが悲しいのでもなく、また喜一が雛を殺したことが悲しいのでもなかった。正体不明の、それでいて身の置き所がないようなふかい悲しみが、信雄の中を走り抜けていったのである。

 喜一の母親が馬鹿にされるのはなんでだろう。警察官や、先生、大工や会社員のように、必死に家族を守るため、働いているだけなのに。仕事の内容が水商売だからだという理由ではちっとも納得できない。

 喜一が雛を殺したのは、力ではかなわない兄弟のいじめにたいする、反撃の仕方だったからです。馬鹿にされたまま、力で押さえつけられたままなすすべもない経験を喜一一家はずっと耐え忍んできたのでしょう。船の上で暮らす彼らには、どこへいっても立ち退き勧告が出されていたからです。

銀子と米櫃

お米がいっぱい詰まっている米櫃に、手ぇいれて温もってる時がいちばんしあわせや。…うちの母ちゃん、そないいうてたわ

 信雄が理解できない温かさ、銀子が手を入れた米櫃にはそれがあるのです。米櫃があったかいかは僕にもわかりません。当たり前のように、お米を食べれることができるから。信雄もそうだったのでしょう。

 他人が感じている現実、それはその人にならないよ到底理解できないことなのかもしれない。銀子は信雄に自分と他人の違いを気づかせてくれる大切な友人だったのかもしれません。

泥の河

そこは、もう信雄にとっては、足を踏み入れたことのない他所の街であった。

 青く燃える蟹がまとわりついた母親の背中に、恐怖した信雄が泣きながら家に帰ったこと。それは、喜一たちにとってどんな暴力よりも辛いことだったに違いありません。

 結局、他人とは分かり合う事ができないんだと、最後の場面が暗示しているように見えました。信雄と喜一の家の溝は、けっして埋まらないものになってしまったのです。

まとめ

「分かり合えないこと」信雄と喜一の間に挟まれた「泥の河」が二人の溝を表現しているようで、読み終えても、ずっと心に残る作品だった。

 自分と他人、それどころか家族の間にさえある「へだたり」をまざまざと見せつけられた気がする。どこまでいっても、自分と他人の間にある溝は埋まらないのだろうか。それが、途方もない闇を見てるような錯覚を引き起こす。

 きっちゃんと信雄に再会して欲しいと思う。大人になった彼らは、それぞれの人生を歩んで、子供の時に作ってしまった溝を埋めて欲しい。泥の河を、泥まみれになりながらも突き進んだ先に、二人の居場所があるといい。心から願ってしまいました。

 誰かと分かり合えることへの渇望を抱かせる一冊でした。

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