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「あやふやに好き」が結構好き

「お酒は好きですか?」20代半ば、聞かれることが増えた質問である。だいたい「まあそこそこですかね」と無難に返してきていたが、友人と話す中で家で一人でお酒を飲む自分はどうやら中々にお酒好きだと思われていることが分かった。

美味しい、飲みたいと思う。ないよりあった方がしっくりくる。かといって禁止されてもそれほど苦ではない。心を強く揺さぶるような何かがあるわけではない。そんなお酒に対する「好き」も、これのためなら何でもできる!の「好き」も、同じ言葉だというのはいささか不便なんじゃないだろうか。

そんなことを考えるようになってから、「もしかしてこれ好きだったのかな」と思うことが増えた。今日ゴーヤチャンプルーの気分だわ、と何回か思っている自分に気づいたとき。いつもはスタバにあまり行かないのにメロンフラペチーノだけは何故か飲みに行ったとき。どこにも出かける用事も無いのに少しだけ口紅をひいたとき。

それから、はじめはむしろ嫌いだったはずのものをいつの間にか好きになっていることもある。トムヤムクンを初めて食べたとき、正直人の食べ物ではないと思った。しかしその後なんだか癖になってしまって、一時期は週3で食べるほどになっていた。お酒を飲むようになってから鰹のたたきを食べれるようになった。誰かの演奏を観てからよく聴くようになった曲も多い。そういえばこういうものを「好き」と思うまでもぼんやりとした「好きかも?」の時間があったなあ、と思う。そして不思議なことに最初から好きだったものよりもむしろ強く「好き」と知覚していたりもする。

こうして「あやふやに好き」といえるものの存在を注視するようになってから、なんだか自分の心の動きへの感度が高まったように思う。それは「好きな物が増えると人生楽しいね!」みたいなものではなくて、「好き」「快適」「心が惹かれる」という、理由なんてそれ以上も以下も、後付けにしかならない感情の不思議さを面白がっているような感覚だ。

 そして人についての「好き」を考えるのはより難しい。強い「好き」は私には関わりの中でしか生まれないし、好き予備軍の人たちと、大好きな人ははじめこそ延長線上にあったが、明確に別だと断言できる。大好きな人には「こういうところが好き」とはっきり言える部分があるけれど、だからといってそこだけが好きなわけでもないし、自分にとって快適だから好き、というわけでもない。この人が困るのなら自分に不利益があったとしてもなんとかしてやりたい、と、限られた大好きな人に対しては思う。仮に長い間会わなかったとしても、何かで嫌われたとしても、その人を形作る部分への信頼は変わらないと感じる。その一方でこれまで同じコミュニティに属していて親しかった人たちと環境が変わって交流が薄くなっていくのは、お互いにとっての快適さが損なわれたからなのかもしれないな、と感じている。

少し前まで、そうして限られた時間のみを共にした人たちを思い返すとき、なんだか自分がものすごく遠くまで一人で来てしまったようで、ひどく心細く感じられたりもしていたが、ちかごろはそういう「あやふやに好き」だった人たちと出会いと別れを繰り返すことは、ただ単に悲しいことでもないのかなあと思うようになった。確かに何も残らないかもしれないし、思い出が大した慰めにもならないことが多いかもしれないが、お互いに目を向け合って、少しでも頼り合う関係だったことを思い返すとき、なんだかふわっと暖かさを感じたりもするのだ。

身の回りの人、もの。目を向けてみると「絶対的に好き」なものより「あやふやに好き」なものでむしろ自分の周りは構成されているのだなあと気づく。そんなあやふやさを感じながら過ごしていくのは、結構好きかも知れないなあ、なんて思う今日この頃だ。







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