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感情記録 雪月花の君へ

琴詩酒友皆抛我 雪月花時最憶君 (交友 白楽天)


 先日、失恋した。

 出会った瞬間からずっと、言葉にできない無意識の部分で、引力めいたものに取り憑かれていた。 

 一緒に飲んだお酒の、格別のおいしさ。

 しみじみと、大和絵に描かれた黄金のすやり霞のような夜桜を一緒に眺めた夢みたいな時間。

 好きだよと言ってしまったわたしに「それは友情でしょう、冷静になって」としずかに諌められたこと。

 いろんな記憶がふわふわと浮かんでは消える。

 多分、あの人は私(そして私以外)の能動性を表面的には拒絶はしないのだろう。どんなに突拍子のない話でも、受け止めてくれるように思えた。

 私はその心地よさに甘えるだけでは満たされず、欲をかいてもっと深く潜りたくて、ついに自分の気持ちを伝えてしまった。でもそれはやさしく跳ね返された。わたしはあの人にとって、特別な関係性をもつには至らない人間だったのだ。

 「また誘ってよ、気まずいのは嫌だ」と言ってあの人は去った。馬鹿な私は、その言葉を都合よく受けとりたくて、この曖昧な繋りにすがりたくて、でも「何もできないけど、ありがとう」というあの人に対して、もうどうにもできないのだと絶望した。

 はじめからあの人が私個人を必要としているわけではなくて、私の我儘な幻想を投影させてくれていたのだと思い知って、やりきれなくて、ずっと霞を手に入れようと躍起になっていたんだなあと虚しくなった。

 わたしはこの経験から何を学ぶべきなのか、どう終わらせるべきなのか、まだ図りかねている。ただ、この酔いが醒めたら、現実と向き合って、ひとりで立って歩んでいかなければならない。もう少しだけ、こんな文章を書いて、感傷ともいえない何かにひたることを許してほしい。

 いろいろの色音のなかに。わきて我がしのぶ松虫の声。りんりん りんりん 凛として。夜の声冥々たり。すはや難波の鐘の明方の。あさまにもなりぬべしさらばよ友人なごりの袖を。招く尾花のほのかに見えし。跡絶えて。草茫茫たるあしたの原に。虫の音ばかりや。残るらん虫の音ばかりや残るらん。(松虫)

 能「松虫」の謡を思い出す。一河の流れを汲む縁があるのでは、と思っていたひとはふらりと草葉に紛れて消えてゆく。あとに残された者は呆然と立ち尽くすことしかできない。どうしてと聞いても虫の音にかき消されてしまう。

 おこがましいけれど、あの人のゆく道を照らす月明かりのようになりたかった。去りゆく軌道、もう届かない距離には、どう足掻こうとも抗えない。

 ただ、私と出会ってくれて、美しい時を共に過ごしてくれたことに感謝しよう。いつか、今生でなくても、雪月花を共に喜び合えたら。笑っておいしいお酒を酌み交わせたら。どうか、とこしえに、健康で、幸福で、満たされていてほしい。

雪の美しいのを見るにつけ、月の美しいのを見るにつけ、つまり四季折り折りの美に、自分が触れ、目覚めるとき、美にめぐり合う幸いを得たときには、親しい友が切に思われ、この喜びを共にしたいと願う、つまり、美の感動が人なつかしい思いやりを強く誘い出すのです。(川端康成)

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