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人は教育から何を学ぶべきかーフリースクール雑文記(9)

こんにちは!

フリースクールBASE副代表のハルです。

暦の上では秋になってきましたが、まだまだ暑い日が続きますね。。。
皆さまはいかがお過ごしでしょうか?

私はというと会社として進めているAPOLLO計画を少しずつ少しずつ進行しておりまして、あちこちに電話して比較検討してはまた次の場所に電話して、、と絡まった紐をほぐすみたいに長大な(正直面倒臭い)プロセスを順繰りにこなしております。

きっと義務教育で習う数学の本質はこの思案→立式→演算→検算という課題解決の手順整理と根気を学ぶことにあるのですね。
もっとちゃんとやっときゃよかったかも(笑)

さて今回は、現代教育への疑問に対する疑問というテーマで、現代教育(とりわけ学校での義務教育)について、ネットニュースやSNSなんかでよく見る論議、すなわち「人は教育から何を学ぶべきか」という内容について、私なりの考えを書かせていただこうと思います!

それでは、最後までよろしくお願いいたします♪

人は教育から何を学ぶべきか

このテーマに関するそもそもの発端として、巷でたまに見かける教育論の「学生時代に得られる友情は学力よりも大事」という牧歌的なスローガンに対する素朴な疑問があります。

おそらく『偏差値を伸ばすことよりも人生にはもっと大切なことがあるよね!』という趣旨がこの言葉には籠められていると思うのですが、(またその趣旨に対して基本的には異論ない、、はずだと思うのですが)私の気になるのはこの「学生時代に得られる友情」と「学力」という互いに性質の異なる2つの概念が、前述したスローガンの中ではあたかもトレードオフの関係であるかのように扱われている点にあります。

言うまでもなく「学生時代に得られる友情」と「学力」は人間にとって決して両立しえないものでなく、定性的な友情と定量的な学力という、質的に異なる両者にはむろん人生におけるそれぞれの価値と意味合いがあって、さらに言えばこうした二者択一を知らぬ間に掲げる心理の背後には、定量的な概念、すなわち不断の努力により地道にスコアを上げていくという、必然的にタフネスを要する作業に対するディスリスペクトが働いているように思えてなりません。

またこの「学生時代に得られる友情」>「学力」論にはもう一つの心理として、人間の自由への浅慮というものも潜んでいるように私には思えます。すなわちこの「学生時代に得られる友情」>「学力」論における比較演算子「>」が、その論者によりあらかじめ与えられていることが私には気になるのです。

思うに人生における物事の優先順位というものは我々個人が各々の価値観の中で手前勝手に決めていけばいいのであって、その独善的な選択の中でこそ人間の本質的な自由も培われるのだと私は思います。言ってしまえば「俺は今、友情なんざ育むより偏差値上げる方面白えんだよ!」と瞳を輝かせて言い切れるのが、真の意味で人が自由であることの証しなのだと私は思います。(無論その逆の発言も然り)

しかし前述した通り質的に異なる物事には質的に異なる価値と意味合いがあって、一方を追求したあげく他方の面白さ・大切さを見落としてしまうという危険性は確かにある。そうした事態を避けるために、初めて一種の能動的な教育というものが子どもたちにとって必要とされる時が来るのだと思います。

だから教育において人が第一に学ぶべきことは「自分の人生における優先順位を選ぶこと」であり、第二にその「選び方」が出てくるのではないでしょうか。少なくとも私はそんな風に思います。


追伸:「すべてがモチモチのカヌレ♪」などカヌレではない、グミだ。表面はガリガリ、生地はモチモチこそ至高。仕上げにチョコやら抹茶やらをかけるのも外道。プレーンこそがカヌレの原点にして頂点。学芸大前に Dans la Poche というカヌレ専門店があるので世のカヌレ好きは必ずいくべし。しのぐものなき絶品なり。


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