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これがきたるべき未来?

 専門家と一緒に昔の骨を見るという催し物に参加したんです。とある博物館が主催で、都内で発掘された数百年以上前のご遺体を実際に見ながら専門家が解説する形になっておりました。一般人の私にとっては当然ながら貴重な経験でございまして、骨の特徴から当時の生活習慣を次々と推測してゆく専門家のすごさに舌を巻いた次第です。

 催し物の間、私は隣にいたご婦人とちょこちょこ話をしていました。こう書くとそれなりに会話が弾んだかのようですが、実態はひたすら話しかけてくるご婦人に対して私が相槌を打っているだけでございました。会話と言うよりは、9割がたご婦人の独り言みたいなもんです。

 我々の大先輩とも言える方のご遺体を前にすると、さすがに妙な緊張感が走ります。そのせいか、ご婦人はこんなことを言ってきました。

「年齢のせいか最近になって骨に興味が出てきてね。やっぱほら、私もそのうち骨になるじゃない?」

 自虐ネタの不意打ちに鼻水が出そうになりましたが、どうにか耐えた次第です。ご婦人はグレイヘアーが特徴的な方でございまして、発言から察するにそろそろ終活を考えるお年頃なんでしょう。「自分はこれからどうなるのだろうか」という興味は誰でも多かれ少なかれ抱いているでしょうけれども、ご婦人の場合はその興味が骨という形で表れているのだと思います。少なくとも「自分はこうなるかもしれない」というモデルケースのひとつには考えていると推測されます。

 「自分はこれからどうなるのだろう」との疑問が浮かび、身の回りで見かけたものから「こうなるかもしれないな」と想像する。その気持ちは私にも分かります。私もまた、将来が気になり、街中で見かける誰かを、いつか訪れるかもしれない未来のひとつだと考える。そんな癖がついています。

 先日、近所の道を歩いていました。周囲は住宅と畑と緑地が入り混じるのどかな風景で、道はなだらかな上り坂でした。そんな私の前に、一組の老夫婦がいました。夫は妻の車椅子を押しながら、ゆっくりと慎重に、しかし確実に一歩ずつ坂を上っている。

 当然、夫の手伝いはこれに留まらないでしょう。家に帰れば帰ったで、また別の形で妻をサポートする。老老介護の問題が取りざたされて久しい昨今ですから、懸命になりすぎて負担にならないよう、様々な人の手を借りながらうまくやっているに違いありません。

 老夫婦は本当にゆっくりと進んでおりましたため、坂を上りきる頃には追い抜けそうな距離にまで近づいていました。ふたりはそれぞれに散歩を楽しんでいるのか、黙ったままです。しかし、私がちょうど老夫婦を追い抜かそうとした時、ポツリポツリと会話したんです。

「栗?」
「栗?」

 妻が道路わきにある果樹園を横目に夫へ質問をするも、夫も答えに窮して同じ質問を投げ返してしまう。そんな光景に思いました。

 妻の車椅子を押すくらいならば私にも将来ありえる光景かなとは思いましたが、この会話はちょっと。限界まで削ぎ落した言葉でのやりとりは熟年夫婦ならではという感じも致しましたけれども、そんなポツリポツリとクリクリ言う場面はさすがに実現しそうな未来に思えません。

 ちょうど枝に青い葉しかついていない頃だったので仕方がありませんけれども、念のためにGoogleマップで確認したら、老夫婦が栗だと思っていた木はしっかり柿でした。未熟な私、数十年程度ではその境地に辿り着ける気がしません。モデルケースになるかと思ったらそうでもなかった。そんな時もあります。

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