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忍者には不向き

 大人になっても忍者への憧れがバリバリに残るとは思いませんでしたが、そんな話をしたいわけじゃないんです。落とし物の話を書きたいんです。

 たまに前を歩く方が物を落としたことに気づかずそのまま先へ進んで行ってしまう時があります。明らかなゴミでもない限りは拾って持ち主に渡そうと思うんですが、まあこれが難しい。とっさに判断して知らない人への声をかけるわけなんですが、とっさの判断も知らない人への声かけも苦手な私には越えねばならないハードルが多いし、そのハードル一個一個が極めて高いんです。

 ただ、たまにハードルをすっ飛ばして「あ、拾わなきゃ」となる時もあるんです。人助けをした人がたまに言う「身体が勝手に動く」というやつですね。大型スーパーで夫婦が押しているベビーカーからハンドタオルがハラリと落ちた時もそうでした。私は無意識のうちに忍者のごとく機敏な動きでハンドタオルを拾うと、夫と思しき男性に接近して肩をトントンと叩き、「落としましたよ」と言ってハンドタオルを差し出しました。

 男性の第一声は「わっ、ビックリした」でした。そりゃそうでしょう。人間、知らない人に声をかけられる機会は思ったほどありません。無言で背後に接近する声かけとなればなおさらです。しかも肩をトントンしてる。声をかけられた側としては、背後から来た人の目的が何であれ、驚いてしかるべきです。とりあえず相手のご夫婦にヤバい人じゃないとギリギリご理解いただけたようで、お礼を言いながらハンドタオルを受け取ってもらえましたが、その目は緊張でバッキバキになっていました。

 声のかけ方を考えた方がいいと思いました。いくら善意とは言え、音もなく相手の背後に接近し、間近で声をかけるという忍者スタイルはよろしくない。やられる側にとっては、暗殺者と大して変わりない接近方法です。大声を出されなかっただけよかったと言わざるを得ない。

 挽回のチャンスは思ったより早く訪れました。数週間後、とある商業施設のエスカレーターに乗っている時、前の女性からハラリとハンカチが落ちました。とっさに拾ったのはいいんですが、前回の失敗もあってか、女性相手に忍者スタイルは厳禁だと即座に悟りました。女性の背後に接近しての声がけは一歩間違えば警察案件です。忍者スタイルへ移行したい気持ちをグッと抑え、ちょっと離れたところから「落としましたよ」と声をかけました。女性は驚いた様子もなく振り向くと、お礼を言ってハンカチを受け取ってくれました。任務完了です。これでよかったんです。私は学びました。落とし物に忍者は不要なんです。

 しかし、子供の頃から抱いてきた忍者への憧れは簡単に振り払えるものではありません。前の人からハラリと何かが落ちるのを見て「拾わなきゃ」と思う時、やっぱり一瞬だけ忍者の動きになるんです。別に日々隠密行動をして生きてるわけじゃないんですが、なぜか前の人が物を落とす時だけ私の中の忍者が目を覚ますんです。

 完璧な人間なんていませんから、皆さんいろんなことに注意して過ごしていらっしゃるとは思うんです。ただ、忍者になるかもしれないから気をつけなきゃとかそんな意味不明なことに注意しているわけじゃないとは思うんですよね。もっとちゃんとしたことに注意して生きていける人間になりたいものです。

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