見出し画像

お笑い芸人は褒めるのが苦手なのか

 お笑い芸人の主な仕事は笑いを取ることです。ネタをしたり、いじったり、リアクションしたり。個人的に圧巻なのは喧嘩で笑わせる人です。何しろ、無関係の人が喧嘩しているのを見るだけでビクビクしてしまう私でも笑ってしまうんです。笑える喧嘩は一体どうすればできるのか、未だによく分かりません。

 一方で、当然と言えば当然なんですが、お笑い芸人だってカメラの前で誰かを褒める場合もあるわけです。そういう場面を私は当たり前のように見てきたんですけれども、ふと気づいたんです。芸人が褒めているところを見て笑った記憶がないなと。

 もちろん、「そもそも笑わせようとしていない」のが大きな理由だとは思うんです。一般的に知られている前提として、お笑いはマイナスと見なされがちなものを活用して笑ってもらい、結果的にプラスへと転化する形が非常に多い。何かを褒めるのはもともとプラスのものをそのままプラスで皆様にお届けしているわけで、お笑いの形とは異なるんです。だから、笑いづらいですし、褒める時に笑わそうとしない芸人が現れても不思議ではない。

 じゃあ、どうしてマイナスがないと笑いにしづらいのか、という疑問が出てくるわけです。そこで、芸人が褒めているところを見ていると、ある点に気づくんです。「大体どこかで聞いたような褒め言葉で占められている」。人を笑わせるためなら造語を使ってまで様々な表現を駆使するお笑い芸人が、褒める時は普通の表現に収束する。売れている芸人でもそうなんです。独特な視点で、聞いたことのない言葉で褒めている人は芸人でもかなり珍しく、笑いを取る人となると更にレアです。

 どうしてこうなってしまうのでしょうか。理由はいろいろあると思うんです。みんなで考えれば、人によって異なる結論を出すことになるでしょう。ただ、私は、他人様はともかく、自分自身が納得できるような理由をひとつくらい見つけて、それなりに腑に落ちたい。そう考えておりました。

 ヒントとなったのはロシアの文豪ドストエフスキーが発表した長編小説「アンナ・カレーニナ」の有名な冒頭でございます。

すべての幸せな家庭は似ている。不幸な家庭は、それぞれ異なる理由で不幸である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/アンナ・カレーニナの法則

 「幸せな家庭」とは何か。人それぞれに違うとは思うんです。でも、誰が考えても、幸せな家庭になるためにはいくつもの条件を満たさなければならないことになります。お金が満足にある、仕事が充実している、家族はみんな仲が良い、病気や怪我がない、などなど、満たすべき条件が複数ある。

 「不幸な家庭」は、その条件からひとつはみ出るだけで成立します。それも極端であればあるだけ不幸になれる。家族みんな仲が良くて健康でも夫婦の年収が300円だとか、日々素晴らしい仕事をしてお金もたくさんあるのに家へ帰れば毎日のように夫婦で殴り合いの喧嘩をしているとか。

 もちろん、不幸になるためにはみ出る条件はひとつでなくていいわけです。年収300円の病人夫婦が殴り合いの喧嘩をしたって十二分に不幸な家庭になれます。何だったら「幸せな家庭」になるための条件をひとつも満たさなくていい。「不幸な家庭」になるためには、条件から外れれば何だっていいんです。選択肢は無限です。

 誰かを褒める場合、それは必然的に対象が「幸せな家庭」になっているのかもしれないと思ったんです。例えば、「可愛い」と褒めた場合、対象が「可愛い」を満たす条件が全て揃っていることを暗に認めている。それはつまり、多様性に乏しいこととイコールなわけです。逆に、「可愛くない」とけなす場合には、可愛くない理由をあげようと思えばいくらでもあげられるわけです。何しろ「可愛くない」となる条件は無限にあるわけですから。

 つまり、褒めるとどこかで聞いたような表現になりがちなのは、そもそも褒められるようなものは多様性に乏しいのが大きな要因となっているからなんです。いくつもの条件を満たした、似たようなものしかないから、ちょっと油断すれば似たような褒め言葉ばかり口にしてしまう。話術に優れたお笑い芸人でもそうなんでしょう。もちろん、褒め言葉が笑えないのは別の理由もあるでしょうけれども、表現に制約がある点が笑いを取りづらくさせている側面があるのではないかと考えられます。

 そう考えると、初めて聞くような褒め言葉で、皮肉でも何でもなくキチンと褒められる人は、厳しい制約の中でうまいことやれた人であり、大変な才能と言えましょう。ちゃんと褒めた上に笑いが取れるなんて、相当難しいことをやってのけたんだと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?