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千円札の記憶を、未来の私のために

 人の記憶は当てにならないと言われています。もちろん、全部ダメとは言いませんけど、全部正確に覚えている人もまあいない。

 例えば、私の実家の玄関には壁にこぶし大の穴があるんです。今でも掛け時計で穴を塞いであると思うんですけれども、その穴は私が高校生の頃、玄関でアホなダンスを踊った結果、肘で壁に強烈な一撃を与えてしまい空いた穴なんです。もちろん、当初はその件で私がちゃんと怒られました。

 でも、いつの間にかその穴は弟が空けたことになっているんです。母も父も「あいつはしょうがねえからな」なんて、いい思い出にしていますけれども、そのいい思い出は間違ってるんです。

 疑問はふたつあります。まず、私が穴を空けた時、両親は私をみっちり叱ったはずなのに、なんでそれを忘れているのか。まあ、大体こういうのは叱られた方は覚えていて、叱ったほうは忘れがちですから、仕方がない。もっと疑問なのはなぜ弟が否定しないのかという点です。修理代を弁償されるわけでなし、特に害はないから放置でも問題ないだろうとの魂胆でしょうか。それとも、弟も自分が穴を空けたんだと、記憶を改竄してしまっているのでしょうか。

 もうかなり昔の話ですから、私が正直に言っても特に何にもないはずではあるんです。でも、今や家族の誰も話題にしないような出来事なのに、敢えて「私がやりました」と言う意味もほとんどない。むしろ「何で今になって言い出すんだ」と妙な疑いをかけられかねません。

 私以外の関係者はすっかり記憶が書き換えられてしまった玄関の穴ですけれども、実は私の中に、今まさに書き換えられるかどうかの瀬戸際にある記憶があるんです。

 その記憶はこれまた高校生の頃、自転車で下校している時で千円札を1枚拾った。ただそれだけの話です。人間、千円札を拾う機会なんて滅多にありません。だから、通学路のどの辺りで拾ったのかも具体的に思い出すことができます。

 でも、その記憶は嘘なんです。高校生の私が友人の気を引こうと適当にでっち上げた話だったんです。ただ、同じ嘘でもリアリティはあったほうがいいと思いまして、いつどこでどんな風に拾ったのか、設定を固めてから披露したんです。

 そのせいか、友人たちは信じてくれました。何しろ普通の高校生はお金がありませんから、とても羨ましがられました。もう、どの友人たちも同じような反応でございました。その反応が当時の私には面白かったのでしょう、本当に友人という友人に言っては反応をチェックしていました。

 一通り嘘をつき尽くせば、千円拾った偽エピソードは役割を終えたことになります。実際、嘘をつきまくったのは高校生活の中でも3日くらいなもので、以降はほとんど忘れていました。

 それが最近になって、この偽エピソードを久々に思い出したんです。自分が作った嘘だという記憶は薄っすら残っているんです。でも、誰にどれだけ嘘をついたかは全く記憶にない。そのせいか、少しではあるんですが、本当に千円札を拾ったような気持ちになっているんです。

 大人になった今だって千円は大切なお金でございますが、当時ほど大金とは言い難い。だから、高校生の頃に千円札をマジで拾おうが拾うまいが、どっちでもいいんです。人生に大した差はございません。積極的に事実だと思い込むつもりもなければ、嘘は嘘として記憶に留めておく決心もない。ただ何となく、本当か嘘か分からなくなりかけた状態で記憶の奥底に漂っている。

 10年後くらいにこの文章を見て「あれ嘘だったんだっけ」とビビるのか、それとも「やっぱ嘘だったか」と安心するのか。特に楽しみではありませんが、こうやって残しておこうと思います。

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