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「コントをする漫才」と「漫才をするコント」の違い

 お笑い芸人のネタと言えば漫才とコントが二大巨頭でしょう。そのふたつの関係でずっと疑問に思っていたことがあります。

 漫才の途中でコントに入るパターンは非常によくあります。「ちょっと喫茶店の練習しよう。俺は店員やるから、お前はお客やって」みたいなやつですね。「コント漫才」なんて呼ばれているようです。

 しかし、逆に「漫才のコント」となると滅多に見かけません。漫才のコントというテーマに真正面から挑んだものとしては、ドランクドラゴンの「親子の漫才師」があります。父親役の塚地さんが子供役の鈴木さんと一緒に舞台袖で最後の練習をして本番に挑むも、子供役の鈴木さんが全く練習通りにできないという内容だったと記憶しています。実際に鈴木さんは本番になると緊張のあまり練習と全く違うことをしてしまい、塚地さんは大いに悩まされていたようで、それを題材にしたとのこと。

 他には、往年の名バラエティ「ダウンタウンのごっつええ感じ」内で「妖怪人間」という、どこぞのベム・ベラ・ベロを模した今田耕司さん、YOUさん、松本人志さんが漫才をするというコントがありました。ただし、内容はほとんどトリオ漫才となっており、ドランクドラゴンのような「劇中劇」としての漫才とは構造が異なります。また、ゆにばーすが2018年のM-1グランプリで漫才中にコントへ入り、更にそのコントで漫才をする、というネタを披露していました。こちらは変則的ではあるもののコント漫才の範疇だと思われます。いずれにしろ、日々大量に作られる「コント漫才」に比べ、「漫才のコント」の数は非常に少なく、ほとんどないに等しい。

 どうしてなのでしょう。漫才の中でコントをするのは、コントの中で漫才をするより簡単なのでしょうか。仮にそうだとしたら、理由は何でしょうか。膨大なコントと漫才を見たり、漫才とコントの成り立ちを比較したりと、あれこれ調べては結論を出してみるも、妙に納得がいかない。とりあえず疑問を一旦放置し、しばらくしてからまた調査したり考察したりするも、また結論に納得がいかず終わる。そんなことを繰り返すうち、10年くらいの時間が経ってしまいました。

 しかし先日、風呂でぼんやりしていたら気づいたんです。選択の幅が全然違うじゃないかと。

 漫才の途中でコントに入る場合、そのコントはネタによって千差万別です。どんな場面を選んでもいいし、どんな役になってもいい。遠い過去から遥か未来まで、近所のコンビニから宇宙の片隅まで。人に限らず、動物にも神様にも無生物にも、それこそ概念になろうと思えばなれる。概念なんてどう演じればいいのか私には想像つきませんが、やる気になればできるのがコントです。

 一方、コントで漫才をする場合は、そこまで多様な選択肢がありません。「漫才をする」という大きな制限が入るからです。つまり、その分だけ、ネタが限定されてしまう。ドランクドラゴンのような「劇中劇」で漫才を用いるとなると、更にネタの幅は狭まるでしょう。コント漫才は何本作っても「似たようなネタを作ってる」とは思われにくいのに対し、漫才のコントは内容を変えようとがんばっても「またコント内で漫才をやってる」と思われる危険性が高いわけです。

 こんな結論に達するまで10年もかかるなんて、何をしていたんでしょうかね私は。自分はなんて無駄な人生を送っているのだろうとお嘆きの皆さま、私があなたの下位にいくらでも滑り込みますよ。

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