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全公共施設SASUKE化計画

 いろんなところで論争があるわけです。でも、ひとりの人間がこの世のすべての論争を知るのは不可能です。だから、私が知らないだけで、活発に議論されているものはたくさんあるでしょう。ただ、論争自体はたくさんありますから、何かのきっかけでたまたま論争を知る場合もございます。

 先日は「排除アート」と呼ばれる論争があると知りました。排除アートとは公共の場に置かれた、仕切りがあって寝そべれないベンチみたいに、特定の行為を暗に禁止する物体を主に指すようです。調べたら、本も出ていました。

 その論争は先日知ったばかりですので、浅いところしか分かりませんけれども、設置した側としては公園などでの「迷惑行為」を防ぐ目的があったようです。夜中に騒ぐ人とか、ベンチをずっと占拠している人とか、そんな方々をいちいち注意したのでは大変ですし、トラブルにもなる。だったら、あらかじめ「迷惑行為」をしづらいものを置けばいいとの結論になったのだと思われます。そして、実際に効果があったらこそ、そういうものが増えたのだと考えられます。一方、批判している側は「公共の場はみんなのものなのに、一部の人を追い出すような物体を置くのはどうなんだ」と考えているようです。名称から考えて「排除アート」は批判側のどなたかが考えたのでしょう。

 どちらの考え方も、それなりに理解はできる。と同時に、全ての人が納得できる完璧な考え方なんてまず存在しない。だから論争になっているのでしょう。

 そう言われてみれば、公共の場でのベンチに変わったデザインのものが増えたなあとは思っていました。でも、特に気にしていませんでした。と申しますのも、そもそも電車に乗るのだって緊張する私にとって、公共の場でくつろぐという発想がないわけです。どこのベンチがどんな形だろうと、用事をサッサと済ませて家に帰りたい。公園でリラックスするという発想もありません。公園は誰が来るかも分からないような場所でございますし、近くに誰かいるだけでもう気を遣って落ち着かない。真に落ち着けるのは自分の部屋だけでございますし、それだって窓の外に猫がいるだけでちょっと緊張する。

 たぶん、「排除アート」という問題を提起した方は、私のような性格ではないのだと思います。公共の場でも全然まったりできるし、公園でバッチリリラックスできる。だから、「このベンチ、使いづらいぞ。どういうことだ」となったのかもしれない。世の中にはいろんな人がいる。これもまた、いろんな論争が巻き起こる理由となっているのでしょう。

 ちなみに、この手の議論でよく見られるのが、「この傾向が強くなったら大変だ」という主張でございます。「排除アート」論争に当てはめるならば、「こういうのが増えていったら、公共の場を誰も使わなくなってしまう」との考え方になると思われます。

 実際にそうなるのかどうかはともかく、気になったんです。特定の行為を防ぐ目的で公共のものが使いづらくなる傾向、これが強くなるとどうなるのか。

 恐らく、普通の道もすごく歩きづらくなっていると思います。デコボコがあるのはもちろん、平均台みたいにやたら細い歩道があってもおかしくはありません。駅へ向かう道に反り立つような急勾配の坂道が当然あるでしょうし、場合によっては無駄に広い谷間が出来ていてジップラインを使わないと渡れなかったりする。

 ここまで書いて何かに似てると思ったらSASUKEでした。

 財政が赤字だとヒーヒー言ってる自治体も多い中で、全公共施設SASUKE化計画に税金を投入するクレイジーな行政が生まれるとは全然思いません。ただ、思うんです。SASUKEはTBSで長らく放送されている人気特番です。過酷なコースを踏破しなければならないはずなのに、参加者が後を絶たない。

 そう考えると、切り立った崖ばかりの過酷な山だって、むしろそういう山だからこそ登りきってやろうという人が現れる。道が過酷になればなるほど、人の足は遠のきますけれども、逆に引き寄せられる人も一部存在する。

 すべての人を受け入れるのと同じくらい、すべての人を排除するのは困難である。「排除アート」の論争については未だビギナーな私ではございますけれども、それだけは分かりました。

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