人は話を盛る生き物
人は話を盛る生き物だと思うんです。何か面白い出来事にであった。素晴らしい体験をした。つらい目に遭った。話す時、その面白さ、素晴らしさ、つらさを、つい強調してしまう。
私が知る限り、話を盛る人に相手を騙す意図はまずありません。自分の気持ちを相手に知ってもらいたい。自分の話で楽しんでもらいたい。経験を共有したいあまり、時には無意識で話を盛ってしまう。それが人という生き物でございます。
多くの場合、話を盛っても特に不都合は生じません。その場限りの「面白い話だった」で終わってしまう。しかし、話を盛る行為は、嘘つきと呼ばれる危険と隣り合わせです。盛れば盛るほど事実から離れてしまいますから、真実を伝えなければならない場面で盛ってしまいますとトラブルに繋がりますし、日常会話でも盛りすぎる癖がついてしまうと信用されなくなってしまいます。
とは言え、人は誰かに楽しんでもらいたい欲求がございますから、結果としてどうしても話を盛ってしまうでしょう。私やあなたが盛らないよう気をつけても、他の誰かが盛ってしまう。話を盛る日々が続けば、いつかトラブルにもなる。あの話は嘘だとか、このニュースがフェイクだとか、その手の揉め事はもうずっと問題になってきましたし、たぶんこれからもそうなんだと思います。
さて、一言で「話を盛る」と言いましても、盛り方は人それぞれです。それは話を聞いた人がどういう反応をしてもらいたいかで、恐らく異なってくる。相手が笑ってほしいなら、おかしさを強調する方向に話を盛るでしょうし、怒ってほしいなら腹立たしくなるように話を盛るし、悲しんでほしいなら泣けるように話を盛る。
友人に、口を開けば仕事の愚痴を言う人がいます。ただ、笑えるように加工しているので、私としてはただ笑っているだけで話が済みますし、向こうは向こうでストレスも減るしウケも取れる。ウィンウィンの関係というやつです。
もちろん、友人は私と全然関係のない職場で働いていますから、友人が職場の同僚をどのように言い表したところで、私には確認のしようがありません。話を盛ったかどうか分からないんです。でも、実際に会って仕事をするわけではありませんし、その職場との接点を持つなんて今後もないでしょう。友人の話を私が他の誰かにすることもありませんから、私が嘘つき呼ばわりされる心配もない。だから、仮にどれだけ盛られたとしても私にとって特にプラスにもマイナスにもなりません。何なら、笑った分だけちょっとプラスです。だから、何も気にせず、友人の愚痴を聞いていたんです。
そんなある日のことです。友人は職場でイベントがあったとかで、その様子をスマホでいろいろ撮ってきたようなんです。そして、その画像をいつもの愚痴と合わせて見せてきました。友人は「これがあの事件を起こした人」「これが例の仕事で大騒ぎになった人」と、私に言ってきた歴代の愚痴エピソードに紐づけて職場の同僚を紹介してくる。
しかし、私が沸き上がってきた感情は「ガッカリ」でした。もう、どの人もちゃんとした格好をしていたからです。普通の人の姿をしている。
そこで気づいたんです。友人は話を相当盛っていると。もしくは、盛っているまではいかなくても、数年に1回起こすか起こさないかレベルのトラブルだけをピックアップしたり、奇跡的に起きたおかしな場面だけを切り取ったりと、そんな感じでネタになりそうな失敗のみをピンポイントで紹介していたんです。そうするとどうなるか。話を聞かされまくった私は、友人の職場はもう日常的に変なことをやらかす人だけで組織された、特殊な環境だと思っていたんです。毎日、コントのような出来事が巻き起こる愉快な職場だと。言い換えれば、変な方向にハードルが上がっていたのでしょう。ハードルが上がっていたという表現が正しいのかどうかもよく分かりませんが。
とにかく、人は話を盛る生き物です。それは友人の愚痴もそうなのだと思い知った次第です。当然ながら、私の文章だって同様です。何だったら、皆さんが事実確認できないのをいいことに、最初から最後まで嘘を書いているかもしれない。
どうでもいいフェイクニュースか何かだと思ってお楽しみいただければ幸いです。
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