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殺菌欲求

 今となっては何の注射だったのかも分かりませんが、学校でしっかり一発打たれた幼少期の私は、注射直後に渡されたガーゼに夢中でした。それで注射痕を押さえておくよう看護師から指示されたものなんですが、そのガーゼに何やらスース―するものが含まれている。注射を打つ直前に塗ったものと同じだと子供ながらに気づいていました。

 どうも殺菌するために塗っているのだと後で友人から聞きましたが、そんなことはあまり興味がありませんでした。今までに嗅いだことのない、不思議なにおい。何より肌に触れるとスース―して、なぜかあっという間になくなってしまう。この謎の物体が気になっていました。

 やがて、それがどうやらエタノールという名前で、理科の実験とかで使われるらしいということを知ります。もし私が行動的な少年だったら、理科準備室に潜り込んでエタノールと書かれたビンを探し出し、腕にジャブジャブかけてはスース―させることで己の欲望を満たしたのち職員室に呼ばれてお説教という、いたずらっ子の王道ルートを歩んでいたんでしょうが、そんな度胸も行動力もなかった私は「そうなんだ」と思うだけでした。あとはせいぜい研究室とか病院とかにあるだろうエタノールに想いを馳せるくらいです。エタノールでスース―できる機会は相変わらず注射の時に限られていました。

 大学生になって研究室に所属すると、ようやく手に届くところにエタノールのある環境になりました。しかし、当然ながら実験に使う薬品であり、もちろん業者から購入しているものでございますから、己の欲望のためにジャブジャブ使うわけにはいきません。実験中にちょっとこぼしたフリして手に軽く乗せてみて「おお、やっぱりスース―するな」と思いつつ香りを楽しむのが精一杯でした。

 さて、ご存じの通りここ数年は皆さん、マスクをつけて出かける生活へと変化しまして、至る所に消毒用のエタノールが設置されるようになりました。私もまたマスク生活を余儀なくされたひとりであり、感染症なんて流行しないに越したことはないと心底思っておりますけれども、一方で消毒液だらけの今の状況をこう思わずにはいられないんです。「あの頃の自分にはある意味天国なんじゃないか」と。

 何しろ、こちらが何もしないでもいろんな人が用意してくれるんです。少年時代の私だったらエタノールが向こうからやってきたと考えるでしょう。しかも、手にしっかり塗りつけても誰も怒りません。むしろ、対策をちゃんとしてる人なんだなと思われる。当然ながら大人になった私、毎回しっかり殺菌しました。やっぱりスース―して、あっという間になくなる。しかも何とも言えない香りがする。あの頃と同じです。

 「災い転じて福となす」とか「人間万事塞翁が馬」とか、幸福と不幸の関係は一筋縄にはいかないと多くの人に考えられてきましたけれども、エタノールでそういうことを思う辺り、本当に一筋縄ではいかない関係性なんでしょう。そんなわけで、私は今日も嬉々として殺菌消毒している次第です。

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