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2度目のゾンビ

 「2度目の死」という考え方があるようです。1度目の死は生物学的な死であり、2度目の死は亡くなった方が人々から忘れ去られた時である、みたいな意味合いで語られます。往々にして前段階で「人は2度死ぬ」なんて言葉が添えられている。軽くネットで調べたところ、永六輔さんの言葉とされていますが、明確な出典にあたったわけではないので、正確な情報かどうかは分かりません。

 死という生き物として避けられない身近なテーマを扱ったものであり、「人は2度死ぬ」なんて言葉で「どういうことだろう」と思わせて「2度目は人々に忘れられた時」と来て「ああなるほどね」と納得させる。そこはかとなく文学的な表現も漂う。だから現在に至るまで、様々な人によって使われ、親しまれてきているのでしょう。

 そこで気になったんです。生物学的な死は、順調にいけば穏やかに年老いて亡くなるという過程をたどります。つまり、徐々に死へ向かってゆく。いわゆる「突然の不幸」だって、その不幸に遭遇するまでは徐々に死へ向かっていたはずです。

 2度目の死も同じなんじゃないかと思いました。みんな、どこかの段階で故人の思い出を一気にバチッと忘れてしまうわけではありません。故人の記憶を持つ人がある瞬間、一気に亡くなるなんて状況もまずありません。故人について書かれた本が同時に燃え上がって灰になるなんてことも考えづらい。つまり、故人は徐々に忘れ去られてゆく。

 そうなると、完全に忘れ去られる直前という段階が出てきます。この記憶がなくなると、故人は完全に忘れ去られてしまう。2度目の死が訪れるわけです。では、その「最期の記憶」は何なのか。これが重要になってくると思うんです。

 例えば、まずないと思いますけれども、何かの間違いで徳川家康が人々の記憶から忘れ去れようとしていたとします。歴史的資料もなぜか次々に紛失し、専門家でさえ徐々に家康の記憶がおぼろげになっていく。

 徳川家康と言えば三方が原の戦いで武田信玄に敗れ、必死で逃げ帰っている時におもらしをした話が有名です。走る馬の上で大きいほうをしこたま出したと評判のエピソードですね。これが徳川家康「最期の記憶」だったとしたらどうか。

 家康からしたら「いやいやいやいや、記憶に残るもの他にあるじゃん。江戸幕府とか関ケ原とかさ」とあの世から苦笑いで訴えることでしょう。もう家康の気持ちを考えると他人事ながら落ち着かなくなります。いやもう本当に、死んでる場合じゃないと思います。私が家康だったら閻魔大王に3万回土下座してでもこの世に戻してもらい、「江戸幕府!」とか「関ケ原!」とか連呼して回りたいくらいです。

 もしくは「そんな記憶だけが生き長らえるならば一思いに忘れてくれ」となるでしょう。不本意な状態でこの世に生を留め、完全なる死を懇願する。これはもうゾンビのような状態です。「2度目の死」ならぬ「2度目のゾンビ」ですね。

 そんな「2度目のゾンビ」にならないためにはどうすればいいのでしょうか。人の記憶や記録を自在に操るのは困難ですし、忘れてほしいような恥ずかしい記憶を作らず人生を歩むのはほぼ不可能です。もう「これはこれでおいしいじゃん」という芸人的解決法しか思いつきません。

 というわけで、皆さんも2度目のゾンビにご注意を。注意しようがなさそうですが。

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