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笑いに関する名言集――夏のビアス祭り

 名言集というものは世にあふれているんですが、お笑いに関する名言がほとんどないので作っています。

 具体的には、笑いの名言を以下のみっつのどれかに当てはまるものとし、そのような名言を集めては毎回、一定数をnoteで載せています。

・笑いに関係する言葉が入っている名言
・笑いに関係する仕事をした人の名言
・笑う余地がある名言

 今回はひとつの著作から集中的に引っ張り出してみました。その著作とは作家アンブローズ・ビアスの「悪魔の辞典」です。今回は岩波文庫の新編を用いています。

 「悪魔の辞典」はその名の通り、辞典という体裁でいろんな言葉の意味が書かれていますが、内容が皮肉まみれという作品です。例えば、こんな感じです。

流行(fashion n.) 賢者が、嘲笑しながらも、その命に従う暴君。

 「賢い連中だって分かった顔しながらもしっかり影響受けてるじゃないっすか」って感じのことを辞典っぽくまとめてあるのがお分かりいただけるかと存じます。「n.」は名詞で、英語辞典なんかでよく見る表記ですね。

 この「辞典の体裁でいろいろいじる」というシステムが割とウケたようで、現在に至るまでオマージュ的な作品がちょこちょこ出ており、「〇〇版 悪魔の辞典」とか「××用語 悪魔の辞典」みたいなタイトルで刊行されることが多いようです。

 今回はそんな「悪魔の辞典」から笑いに関係する言葉を抜粋してゆきます。とは言え、何しろ発表されたのが1911年で、しかもビアスはコテコテのアメリカ人でございますから、現代の日本人とは笑いのツボが明らかに異なっております。その辺も考慮に入れつつ、一通り紹介してみたいと思います。過去に取り上げた名言は、今回は採用しておりません。それでは、よろしくお願いいたします。

 まずはこちらからです。

野心(ambition n.) 生きている間は敵から悪しざまに言われ、死んでからは味方の者から物笑いにされたいという、抑えようにも抑えることのできない激しい欲望。

 なんかこの項目が人気で、いくつかの名言集にも取り上げられているのが確認できています。「野心ってそうっすよね」と納得させる部分があるからなのでしょうか。とりあえず、あんまり表に出すと敵味方問わずいじられるのが野心のようです。その辺は時代を問わないみたいですね。

顎ひげ(beard n.) シナ人の間に見られる頭を剃るという習慣を、当然のことながら、笑うべきものとして忌み嫌う連中が、普通、切りおとしてしまう顔に生えた毛。

 基本的に「悪魔の辞典」は辞典っぽい表現で書かれているため、恐らくわざと回りくどい説明になっておりまして、これなんかが典型です。「よその国の習慣を笑ってるけど自分らだって似たようなことしてるやんけ」ということなんだと思います。

 欧米は人種ネタが多いとは聞いておりますけれども、「悪魔の辞典」にもその傾向が見られるようです。

剃刀(razor n.) 白色人種がおのれの美貌をさらに美しくさせ、蒙古人がおのれを物笑いの種にしてみせ、アメリカの黒人がおのれの価値を確認するのに用いる道具。

 こちらも毛を剃る行為を通じて書かれた人種ネタのようなんですけれども、向こうの「人種あるある」がよく分からないため、何をどういじっているのか理解が難しくなっています。

 他にもそういう文化の壁が理解を阻んでいるものがチラホラあります。例えばこれです。

未亡人(widow n.) キリストがこの連中に対してとった思いやりのある態度は、彼の性格の最も著しい特色の一つであるにもかかわらず、キリスト教社会の人びとが、ユーモアをもって考えようと、昔から意見の一致を見ている、哀れを誘わないではおかない人物。

 私はクリスチャンじゃない上に読解力が欠如しているせいか、笑えないどころか笑うポイントも見いだせないわけです。なんか「キリスト教が未亡人に対して取ってきた態度をいじられてるぞ」くらいの理解しかできない。何とも言えないもどかしさを感じます。

ダンスをする(dance vi.) 忍び笑いを思わせる楽の音に合わせながら、出来得べくんば、隣人の細君なり娘さんなりの腰に腕を回して、跳ね廻る。ダンスにはさまざまな種類があるが、中で男女両性の参加をぜひとも必要とする種類のものはすべて、二つの特質――著しく天真爛漫であると同時に、悪徳のやからが心から愛好してやまぬという特質を共通に持っている。

 岩波文庫版は訳者の西川さんが1904年生まれということもあり、やや時代がかった表現が見られます。この項目にはその辺りがよく出ています。「楽の音」「出来得べくんば」「細君」、昔から伝わる美しい日本語を教えられているかのような気分です。

 なんか個人的にはいじりの角度がゆるく感じられ、著者はダンスを取り上げてはみたものの、そこまで強く主張したいことがなかったかのようにも思われます。

博愛主義者(philanthropist n.) 自分自身を訓練した結果、良心がポケットの中のものをすり取っているのに、作り笑いを浮べて我慢していられるようになった、金持の(大抵は頭が禿げている)老紳士。

 ここでまた綺麗な皮肉を持ってきました。「君らやせ我慢でやってるでしょ?」ってことのようです。ついでにサラッと髪型をいじったりもしています。

 さて、「悪魔の辞典」は何度も申しました通り、辞典っぽく書かれています。だから、対義語が載っている場合もございます。

楽天観(optimism n.) 醜いものをも含めて、あらゆるものを美しいと見、あらゆるもの、とくに悪しきものを善なりとし、誤っているものをすべて正しいとする主義ないし信念。この考えを中でも最も執拗に固辞しているのが、逆境に陥るという不幸に再三再四出会って慣れっこになっている連中で、彼らは微笑まがいの苦しい作り笑いを顔に浮べては、いかにももっともらしく楽天観の効能書きを並べ立てる。盲目的な信仰であるから、その非を悟らせようにも、反駁の光などてんで受けつけようとしない。つまり、知性の病気の一つの場合であって、どのような治療法も効果がなく、結局、ご本人が死ななきゃ直らない。遺伝はするが、伝染しないのがせめてもの幸いである。⇔厭世観

 なかなかな書かれようです。とにかくポジティブな人は昔からいらっしゃいましたし、それを見てうんざりしていた人も昔からいらっしゃったということなんでしょう。

 そして、ご覧の通り対義語として「厭世観」が記されています。当然ながらこちらも「悪魔の辞典」内に項目が存在しており、笑いに関する単語が入っています。

厭世観(pessimism n.) 見えすいた希望と見苦しい微笑とを特徴とする楽天主義者が、うんざりするほどのさばり返っているところから、その様を眺める者の確信の上に、否も応もなく押し付けられる人生観。⇔楽天観

 明らかに「楽天観」をフリにしていることがお分かりいただけるかと存じます。辞典のため、日本語ですと「厭世観」が先に来てしまいますが、英語だと「optimism」が先に来るようになっており、著者はきちんとそれを計算して「楽天観」をフリに使っているわけです。

 「悪魔の辞典」は諷刺の聞いた、いわゆるブラックユーモアと呼ばれる類のものにあふれておりますが、当然の流れと言うべきか、「悪魔の辞典」自体にもユーモアがらみの単語を取り上げています。

機知(wit n.) アメリカのユーモア作家が、それを用いようとしないために、ご自分の折角の知的な料理法を台なしにしてしまう塩。

 「機知がないからつまんないんすよ」ってところでしょうか。ユーモア作家をいじっているようでもあり、自虐ネタのようにも見えますね。

 他にもあります。

冷笑家(cynic n.) その視力が不完全であるために、物事を、あるべきようにではなく、あるがままに見る、たちの悪い奴。そうした事情から、スキト族の間では、その視力を矯正しようとて、冷笑家の両眼をえぐり取る風習があった。

 突然出てきたスキト族は「黒海とカスピ海の東北部あたりにいた古代民族」との注釈が併記されています。「スキト族」で検索をかけると「スキタイ人」が出てくるため、どうもそれを指しているのではないかと思われます。著者の中では眼をえぐりそうなイメージだったのかもしれませんね。どんなイメージですか。

 やっぱりと言うべきなんでしょうか。「諷刺」の項目も存在しています。

諷刺(satire n.) 作者の敵どもが犯す悪徳と愚行のことを、不十分な憐れの心をもって詳述する、現在では一般に行われなくなった種類の文学作品。わが国では、諷刺は弱々しい不確かな存在以上のものを、ついに一度も持つことがなかった。というのは、諷刺の精髄は既知であるのに、われわれは、その大事な機知を悲しいほど欠いている一方、われわれが機知と思い誤っているユーモアなるものが、すべてのユーモアと同様、寛大で思いやりに富んでいるからである。かてて加えて、アメリカ人は悪徳と愚行をふんだんに「造物主から授けられている」にもかかわらず、両者がともに不都合千万な特質であることが一般には知られていず、そのため諷刺作家はひねくれた心を持った悪者だと、世間一般はみなしていて、諷刺の槍玉にあげられた連中が、共同被告を求めて騒ぎ立てると、誰の場合にせよ、全国民の同意を呼び起す始末である。

 いろいろ思うことがあったのか、やや長めな説明が書かれています。

 本当の諷刺は相手の悪いところを指摘するもののはずなんだけれども、指摘された方があれこれ騒いで国民の同情を誘っている、みたいな主張です。諷刺はその性質上、意地悪な視点で攻めなければいけないため、場合によっては悪者扱いされやすい。その辺を自虐的に描いているものと考えられます。

 ちなみに、「造物主から授けられている」はアメリカ独立宣言の中に出てくる表現だそうです。

 長めな説明と言えば、更に長いものもございます。

のろま(dullard n.) 文筆の世界および人生に君臨する王朝の一員。のろま族はアダムとともにこの世に出現したが、数も多ければ生活力も旺盛であるので、人間が住み得る場所至る所にはびこるまでになった。彼らの持つ支配力の秘密は、いかなる打撃に対しても無感覚であるところにある。現に、棍棒でもってくすぐってみても、面白くもおかしくもないといった単調な笑いを浮かべるにすぎない。のろま族は元来ボイオチアに生まれたものだが、根がのろまだけに、作物をことごとく枯らしてしまい、ために飢えに迫られて生れ故郷をあとにしなければならなかった。彼らは、数百年間にわたり、ペリシテ人の国で猛威をふるっていた関係で、その多くは、今日でも、ペリシテ人と呼ばれている。その後、十字軍の動乱期のさいにペリシテ人の国から姿を消し、ついでヨーロッパ全土に次第に広がり、政治、美術、文学、科学、神学の各分野で高位の大半を独占するに至った。こののろま族の一分派が、メイフラワー号で「巡礼」と一緒に海を渡り、新世界について耳寄りなことを報告したもので、出征、移民、改宗によって、急速に、しかも着々としてその数を増しつづけている。最も信頼のできる統計によれば、合衆国に存在する成人ののろま族の数は、統計学者も含めて、ほぼ三千万に達するという。この種族の知的中心は、イリノイ州ペオーリア辺りにあるが、それでもニュー・イングランドののろま族ときたら、極端に道徳的で、まったく話にならない。

 「のろまに何されたんすか」とツッコみそうになる長さです。

 「のろま族」が生まれたとされる「ボイオチア」は「ボイオーティア」と呼ばれる古代ギリシアの一部分だと思われます。ウィキペディアによりますとギリシャ語で「牛の国」と呼ばれていたリ、ここ出身の人は鈍いと言われていたりと、なんかそういうイメージがあるようです。

 また「ペリシテ人」は今のパレスチナ辺りに住んでいたとされ、ウィキペディアによると「『芸術や文学などに関心のない無趣味な人』の比喩として使用される」なんて書かれています。

 「ペオーリア」には注釈が併記されていました。「1825年、ニュー・イングランドから多数の者が移住してきたが、のち知的活動の見られぬ典型的な田舎町として知られるようになった。また、かつてボードビルが盛んであった時代には、ペオーリアはしばしば笑いの対象に取り上げられた」とのことで、これまた笑いものにするためのワードとして用いられているようです。

 なんかこう、いろんな歴史に触れながらのろまをいじっていますね。

 他にも説明が長い項目がいくつかございまして、軽く抜粋するとこんなものがあります。

エピグラム、鏡、格言、辞書編纂者、小説、新月刀、物語、霊魂

 新月刀とかよく分からないものも混じってはいますが、基本的には著者のお仕事回りのものが多い傾向にあります。やっぱり、いろいろ言いたいことが溜まっていたのかもしれません。

 今回は以上となります。ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

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