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あなたの好きなものは、あなたの好きなものではない


 いろんな偏見に出会ってきましたが、「あなたの好きなものは、あなたの好きなものではない」と言われたのは初めてです。厳密に言えば初めて以前の問題です。なんですかこれは。禅問答か哲学か、はたまた日本語が苦手なのか。無垢な人々を惑わせて楽しむ小悪魔が考えそうな発言です。

 個人的には大した主張をしたつもりはありません。「自分は好きなものを食べまくっても、まったく食べなくても平気だ」。ただ、それだけの話です。

 具体例を挙げましょう。私はカレーが好きです。物凄く好きです。あまりに好きすぎて大学生をしていた頃、己の「好き」の限界を軽く試したことがあります。1週間3食カレーでも耐えられるか。結果は余裕でした。むしろ、こう痛感しました。「こりゃ向こう10年カレーでもいけるな」と。

 同時に私はカレーを食べなくても問題なく暮らせます。たまに食べたくなる時もありますが、「違うものを食えばいいか」と思えば欲望は簡単に霧散する。禁断症状とは無縁の生活を送っています。実際、現在も9ヶ月くらいカレーを食べずに暮らしていますが、別に歯を食いしばって我慢している感覚はなく、むしろ向こう10年カレーゼロ生活がいけそうな感じです。

 どうも前出の偏見君はそこが納得いかないようです。お前は本当にカレーが好きなのかと。家でカレーを作り置きしてある日はいつもより5分早く退社するくらい好きだと訴えるも偏見君は納得しません。「だったらどうしてしばらく食わなくても平気なのか」と言うわけです。「好きなら定期的に食えよ」「誰に気兼ねすることなく禁断症状を出していけよ」という考えなのでしょう。

 いや、待っていただきたい。いくら好きだからって、常にそれが食べられるとは限りません。出先でご飯を食べる時、たまたまカレーを出す店がない場合がある。そして、そんな状態が続く可能性は常にある。来るかもしれない事態に備えての結果なのです。するとまた反論が来ます。お前はカレーを食べられないほど苦しい生活を送ってはいないだろうと。深刻なカレー不足に悩まされている土地に住んでもいないだろうと。

 仕方なく、私は別の好物について話しました。うまい棒です。安くてうまいお菓子、好きになる要素しかありません。これまた毎日食べても全く困らない、素晴らしいお菓子です。しかし私、ここ10年はうまい棒を買った記憶がありません。理由は簡単で、たまに誰かがくれるからです。もらったら食べる。うまい。やっぱり毎日でも食べたい。むしろ毎日食べる準備は常にできている。そう言えば偏見君はまた反論です。そんなの好きなら毎日でも買って食うだろう。時々もらうだけで何を満足しているのか。君は本当にうまい棒が好きなのか。

 結局、愛情の形は人それぞれだ、という紋切型の言葉で切り抜けた気がします。いやあ、紋切型っていいですね。仮に食べ物だったら毎日食べても一生食べなくてもいいくらい好きになりそうです。


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