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あぶりだせず

 あぶりだしというものがありますね。紙にミカンの果汁で何か書いて乾燥させると何も見えなくなりますが、火にあぶると文字が浮かび上がるという例のやつです。コトバンクによりますと、江戸時代に酒の席での遊びとしてやっていた記録があるんだとか。ざっと数百年の歴史がある遊びなんですね。

 当然、私が子供だった頃にもあぶりだしはございまして、本でそういうものがあると知った私は母に「やってみたい」とねだりました。ちょうどストーブが恋しい季節でありましたし、家にはミカンがある。早速やってみようという運びになりました。

 母はミカンを絞って汁を用意し、私は筆と紙を持ってきました。あっという間にボール1杯分のミカン汁が完成です。

 私は筆にミカン汁をつけ、紙に塗りたくりました。嬉々としてミカン汁を塗りまくったせいで、紙はあっという間にヨレヨレ、しかも薄っすらとオレンジ色になっています。何なら、紙から汁がしたたりそうになっている。明らかに塗りすぎです。

 どうにかしようと思った私は、紙に溜まったミカン汁に口を近づけ、ズズズズズと吸い込みました。これがまた甘いんです。なぜか母は甘いミカンばかりあぶりだしに使うという大盤振る舞いしてきてたんです。

 これがきっかけで私の興味はあぶりだしからミカン汁へ完全に切り替わりました。筆にミカン汁をつけるとそのまま口に運ぶという、どこの国でもやってなさそうなミカンの食べ方をあっという間にマスターし、ボール1杯分のミカン汁を全て筆で食べてしまいました。ええ、もちろん何もあぶりだしていません。

 母も筆でミカン汁を飲む息子を見て「こりゃダメだ」と思ったんでしょう。以降、我が家ではあぶだしを一度もしておりません。私自身もミカン汁の一件であぶりだしに対する熱が完全に冷めてしまい、現在に至るまであぶりだしを直に見たことがありません。つまり、私のあぶりだしの思い出は、筆でミカン汁をすすったことだけなんです。

 そのせいもあってか、私はあぶりだしという単語を見るたびに、口の中にブワッと広がる甘いミカン汁を思い出すようになりました。明らかに間違ってるんですが、癖になってしまったので仕方がありません。今後もこの癖と運命を共にする覚悟です。

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