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入国審査で一発やられたんです

 1回だけ海外に行ったことがあるんです。中学生の頃、アメリカの姉妹都市にホームステイしたい人を自治体が募集していたんです。それを知った母が「安く海外に行けるから応募しろ」と私に迫ってきまして、何となく応募したらちゃんと当選してしまい、行く羽目になったんです。

 「羽目になった」と書いてる時点でやる気のなさがうかがえるかと存じますけれども、まさにそうで、語学のスキルを磨く気もなければ、海外の見識を深める気もない。そんな余裕もなく、訳が分からないまま、ただ行って、ただ帰ってくる。そんな海外旅行でございました。

 とは言え、記憶に残る場面もございました。例えば、空港での入国審査です。何しろ、周囲の大人に言われるがまま手続きをしていたらアメリカにいた、みたいなスタンスの人間です。英語なんてその辺の日本人より話せません。ですから、大人に言われた通り、何か聞かれたら「sightseeing(観光)」と答えることだけ覚えて、入国審査のカウンターに並んでいました。

 いよいよ私の番になりました。カウンターに座っていたのは、女性の担当者でございました。波立ったグレイヘアーに、豪快さが見え隠れするふくよかな身体、太いフレームの眼鏡と、アメリカのドラマでひとりは必ず出てくる、典型的な中年白人女性でございました。

 私は、とりあえず「入国審査の時にはこれを出せ」と言われた書類を提出すると、いつでも「sightseeing」と答えられる体勢を整えていました。担当者は眉をひそめ、たまに眼鏡をかけ直しながら、書類をチェックしています。当然ながら、私の後ろには審査を待つ人々が並んでおり、何なら次の人やそのまた次の人は必要書類をカウンターに置いて待機しています。

 女性はそれを気にしていたようなんです。私の入国審査の途中ではあったんですが、女性はおもむろにサインペンを取り出しまして、カウンターに線を引き始めたんです。長方形のカウンターを三等分するように、直線をスッスッと引いてゆく。どうやら「この線からはみ出さないように書類を置いてくれよ」ということのようなんです。効果は抜群でございまして、次の人も、次の次の人も、その線に従って書類を置くようになりました。

 しかし、私としては書類を整然と置いてもらう目的でカウンターにガッツリ線を描くとは思っておらず、口を開けて驚きました。本当は「こんなことして大丈夫なんすか、怒られないすか」と聞きたかったんですが、落ち着いている時だってロクに英語を話せない私に、咄嗟とっさの一言を発せられるわけがありません。

 そんな私を見て女性は一瞬だけ笑いました。「これがアメリカだ」と言われたような気がしました。私が勝手にそう思っているだけですけれども、文化の差と申しますか、何か一発やられたのは事実です。ただの少年にそこまで聞くことなどないと判断されたのか、女性は何も尋ねず、ただただ驚いているだけで私は入国審査をパスいたしました。

 というか、今から考えると、仮に担当者が「必要な書類が足りないけど、どういうことだ?」と聞かれても「観光」と答える可能性があったんですね。「お前は『観光』しか言えないのか?」「観光」「おお、そうかそうか。そういう態度なんだな」みたいな。

 危ないところでした。

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