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文学的な悪口

 大学生の頃、ノリで友人の帰省に付き合ったことがあります。ここでは、島村君としておきますけれども、島村君の運転する車に乗り、県を二つ三つまたいでご実家にお邪魔したんです。島村君のご家族は非常に歓迎してくれて、ご飯をご馳走になったり、お風呂をお借りしたり、一泊したりと、とにかく世話になりっぱなしでございました。

 島村君には一人暮らしをしている妹さんがいまして、夜は彼女が使っていた部屋を借りることになりました。もちろん、布団もまた妹さんのものを貸してもらいました。そのまま一晩グッスリと眠りまして、翌日には島村家を後にしたわけなんですけれども、それを別の友人、ここでは木崎君としておきますけれども、木崎君に話したんです。そうしたら、木崎君はこんなことを言ってきたんです。

「お前、田山花袋かよ」

 さすが読書家の木崎君、相変わらず難しいことを言うなあと思ったわけですが、いじるような言い方が気になった私は「何だよ、それ」と尋ねました。すると木崎君は「『田山花袋 ふとん』で検索してみろよ」とのこと。早速、スマホで調べると、ウィキペディアが出てきました。

 田山花袋とは主に明治から大正にかけて活躍した小説家でございまして、確かに「蒲団」という作品を書いていました。「蒲団」は自分のことをそのまま小説にする「私小説」の先駆けとも言われる作品でございまして、主人公は弟子の女性が使っていた蒲団のにおいを嗅いで興奮したり泣いたりする場面があるそうです。つまり、田山花袋は実際にそういうことをした上で、「これ小説にいけるんじゃね」と判断、作品に残したわけです。

 そこまで調べたところで私は木崎君の脇腹へ向けて地獄突きを仕掛けたんですけれども、「蒲団」を読破している木崎君にはそんなことなどお見通しで、華麗によけられてしまいました。

「蒲団に興奮なんてするかよ」
「犯罪者はみんなそう言うんだよ」
「ちゃんと天日干しされてたから人のにおいなんてしなかったぞ」
「語るに落ちてるじゃないか」

 木崎君に文句を言うといつも私が不利な立場に追いやられるんですが、この時もまさにそれでございました。

 しかし、文学的な悪口の題材にされて田山花袋も迷惑なんじゃないでしょうか。そう思ったんですが、「蒲団」は今のところ、田山花袋の作品では唯一、ウィキペディアに単独の項目があるんです。

 「蒲団」は田山花袋を知る入口としては特殊だと思っていたんですが、むしろ田山花袋の代表作であり、つまり王道だったんです。

 すっかり語るに落ちた私、ひとつの疑問が浮かびました。田山花袋はなぜ、こんな小説を書いたのでしょう。木崎君の主張はこうです。

「当時の文学は『こんなことまで書いてる。すげえ』って流れがあったんだよ。ロックスターみたいなもんだ。花袋の場合はそれが性癖だったんだろうよ」

 木崎君の主張が世間的に見て正しいのかどうかは分かりません。ただ、私が腑に落ちたのは事実です。

 そう考えると、現代は田山花袋より遥かに特殊なへきが割とカジュアルにオープンされている印象です。田山花袋を霊界から引っ張り出して、歓楽街を連れ回したら彼の価値観が30回くらいひっくり返ることでしょう。と同時に、田山花袋は未だに蒲団でいじられているわけで、先駆者は強いなとも思います。

 そして、私は蒲団で興奮していません。

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