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規制が強まると表現はお風呂のようになるのか

 ぺこぱがM-1グランプリの決勝に行った辺りからしばらくの間、他人を傷つけない笑いが流行したと聞いています。「聞いています」と書いたのは、ネットのニュースで見てはいたのですが、個人的な体感では全然流行した気がしなかったからです。流行の波に乗り遅れるという表現はたまに聞きますが、私は流行の波に気づけない病に体中をむしばまれているようです。

 平和に越したことないという考えは理解できます。ネタと分かっていても人が叩かれているのを見るのは忍びないという方もいらっしゃって当然です。コンビ仲がいいのは喜ばしいことに違いない。ただ、一方で一時のおぼん・こぼんや現在の竹内ズのように、不仲などのネガティブな情報が人の目をひくのも事実です。平和で優しいものよりも、強く興味をひかれることだって珍しくない。

 これはどういうことなのでしょうか。原因はよく分かりませんが、「そういうものだ」ということは前々からよく知られていたようです。例えば私、その昔、ちょっとしたクリエイティブな学校に通っていたのですが、そこで先生はこんなことをおっしゃってました。「いい話は人の印象に残りづらい」。

 ここで言う「いい話」とは教育的で道徳的なお話を意味しています。もうNHKだろうが文部科学省だろうが、どこに持って行っても全く問題ないようなお話です。

 例えば、同窓会の話として、次のようなエピソードを披露したとします。

 久々に会う懐かしい面々に思わず笑顔があふれ、時に気恥ずかしい思い出話に華を咲かせる。サプライズゲストとして当時の担任が現れ、みんなで校歌を歌って盛り上がる。

 いかがでしょうか。同窓会としては何の問題もない、むしろ非常に喜ばしいものでございますけれども、エピソードとしては「よかったね」となるだけで、そこまで興味をひきませんし記憶に残りづらい。

 それよりも、旧友に出会った瞬間、やつの右頬に渾身の右ストレートを決めるような同窓会の方が、会としては悲劇ではありますが、見聞きした人の記憶には確実に残るでしょう。何しろ、いい大人が出合い頭に相手の顔面へ一発決めるなんてなかなかありません。何が彼をそうさせたのか、ふたりの間に一体どんな遺恨があったのか、興味を持つ人も出てくるでしょう。

 何でも、昨今はお笑いの表現規制が強まっているそうです。笑えれば何でもいい私はもうずっと上品から下品まで、平和から殺伐まで、いろんなお笑いを見て笑っているんですが、そのせいかやっぱりコンプラの実感がありません。ただ、いろんな芸人が口をそろえて言っているところを見るに、どうやらそういう流れが進んではいるようです。

 歴史を軽く眺めても表現はもうずっと規制との戦いを繰り返しているようで、現在の規制はお笑いを下品よりは上品に、殺伐よりは平和にしようという流れのようです。このような規制が更に強まると、お笑いやその他のエンターテイメント関係はみんな平和で上品で穏やかなものばかりになり、体験してる時はなんかいい気持ちだけど記憶には残らない、お風呂みたいなものになるのかもしれません。

 こう書くとなんかいいことにも思えますが、まあバランスは悪いですよね。せめて想像の世界だけは平和でいてほしいという人はいるでしょうし、そういう楽しみ方もアリでしょうが、悲劇のないストーリーはその分、退屈になる人もいると思うんです。下品なものだって、そんなに蓋をして何が楽しいのって人もいるでしょう。

 だからなのか何なのか、どれだけ規制されても、いろんな表現がしぶとく残るんです。むしろ、意地でも生き延びてやるいう気概が出てくる場合も珍しくない。文学史の本をチラ見してみると、政府の圧が強めになっても亡命したり地下にもぐったりして自分の表現を貫く人が普通にいますし、政府の圧がそれほどでもない国でも「さすがにエロが過ぎるだろ」といろんなところから怒られても「いや自分はこれでいく」と頑張る人がいたりする。

 たぶん今後も細部は異なれど似たような感じになるんだと思います。

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