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最後の一葉をバッサリと

 「最後の一葉」と言えば短編小説のビッグネーム、オー・ヘンリーの代表的作です。病気に苦しむ女性が窓の外に見えるツタの葉を見て「あの葉がすべて落ちたら自分も死ぬんだ」という描写が特に有名で、様々なパロディが生み出されております。私もこの描写を始めて知ったのは四コマ漫画でした。オー・ヘンリーの名前や「最後の一葉」という作品が知らなくても、有名な描写だけはどこかで見て知っている方が多いと思います。

 ただし、パロディとなりますと、描写の細部がよく異なります。原作は画家の女性が自宅の窓から見える、レンガの壁を這うツタの葉を見て例の名言を口にするんですが、私が見た四コマ漫画では、入院している人が病院の窓から見える木の葉を見て例の名言を口にします。そのせいか、原作をちゃんと読んだ今でも、私の中の「最後の一葉」名場面は病室の窓から木の葉を見る人なんです。

 どうでもいい間違いと言えば確かにそうです。大事な部分は一緒なんですから。でも、どうでもいい間違いだって、意外なところで意外な影響を与えるものです。

 先ほども書きました通り、私の中の「最後の一葉」は病院の窓から木の葉を見る人の話になってしまっています。だから、街路樹が立ち並ぶ通りに面した病院を見ると、もう当たり前のようにパロディ版「最後の一葉」を思い浮かべるんです。パロディ版だという自覚なしに、です。

 とは言え、思い浮かべた「最期の一葉」が本家だろうがパロディだろうが、日常生活に何の影響もありません。せいぜいその病院を通るたびに「ここで入院している人の中には窓の景色を見て『最後の一葉』を思い出すのかな」と思う程度です。

 当然ながら、窓から見える木の葉が全部なくなるかどうかと、入院患者の病気の進行具合はほとんど関係ありません。でも、病は気からとも言います通り、弱っているところに落葉がダメ押しとなる可能性はある。だから、例の場面は多くの人の心を打つのでしょう。幸いにして、近所の病院の前にある木はガンガンに葉をつけておりまして、真冬でも結構な枯れ葉が枝に残っている。病気で弱っている患者の精神にダメ押しする可能性は低そうです。そう思っていました。

 ある日のことです。私がいつものように病院のある通りを歩いていたんですが、びっくりして立ち止まりそうになりました。ヘルメットをかぶった人が数人、街路樹によじ登って枝を切り落としていたんです。いわゆる剪定せんていというやつですね。街路樹だって植物ですから時間が経つにしたがって枝が伸びる。そして、場合によっては枯れもする。そうなると、伸びた枝が電線にひっかかったり、枯れ枝が折れて歩く人にぶつかったりする危険が出てくる。それを防ぐためにおこなわれていたのだと思います。

 しかし、この剪定、思ったよりも太い枝の根元までいくんです。もちろん、剪定くらい何となく知っていましたが、人に例えると髪の毛を切るくらいのイメージだったんです。でも、私が見た剪定はもう両腕を切り落としているくらい、かなり幹のほうまでいっている。大丈夫なのかこれは。街路樹はこれからも街路で樹としてやっていけるのか。私は心配になりました。

 なにより病院です。病院の前の街路樹は既に剪定された後でございまして、もう切られに切られた、無残という言葉が浮かぶレベルの有様でした。入院患者もビックリしたでしょう。「あの葉がすべて落ちたら自分も死ぬんだ」と感傷的になってるところへヘルメットをかぶった人が何人も登ってきて、結構な根元から枝をバリバリ切り落としていくんです。しまいには枯れ葉どころか枝の大半がなくなっている。最後の一葉を気にしていた患者は呆気に取られて死ぬのも忘れてしまったことでしょう。

 私が見た「最後の一葉」のパロディは病室の窓から見える枝葉でしたが、本家オー・ヘンリーが選んだのはツタでした。実際に原作を読んだ時、最初はなんでツタなんだと思ったんですけど、理由が分かりました。ウッカリ街路樹にでもしたら、根元バッサリ剪定で「あの葉がすべて落ちたら」みたいな情緒がゴッソリ失われかねないからです。もちろん、別の理由もあるんですが、それも含めて「最後の一葉」はよくできた話だと思いました。

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