『ブラック・アダム』能力がない、という能力

2月。飛行機に乗る機会があったので、機内で鑑賞した。
国内線のエンタメは少ない。しかし、先立って飛行機に乗った知り合いから、『トップガン マーヴェリック』が上映中であることを聞かされた私は、ワクワクしながら搭乗したわけである。

結果は、タイトルの通りである。『トップガン マーヴェリック』はなかった。あったのは、『ブラック・アダム』だった。どうも、『トップガン~』のほうは1月いっぱいで、2月からこちらに代わってしまったようだ。
しょげたが、サムネのドウェイン・ジョンソンがイケメンだったので、観ることにした。


さて、前置きが長くなったが、本題へ。

まず、映画を観ながら感じていたのは、さいきんはアメコミ映画もメッセージ性を意識しているんだな、ということ。
私のイメージするアメコミ(マーベルもDCも)は、かっこいいヒーローがこれまた魅力的なアンチ・ヒーローとただ戦う、というものである。
もちろんそこには大義名分が色々あるわけだけれども、その大義名分はそこまで複雑ではないことが多い。場合によっては、同じヒーローであっても、映画によって大義名分が異なっていることすらあると思っている(界隈の人は、世界線が違う、という呼び方をしているようだが)。
私が今までアメコミ作品にしっくりきていなかった、もしくは苦手意識すらあったのは、まさにそうした部分だった。伏線はちゃんと張って欲しい、ストーリーに考察の余地を残して欲しいと思うタイプだから、かっこよくてわかりやすい物語は正直苦手なのである。

一方で、最近のアメコミ作品のなかには、自分も結構ハマれるものがいくつかあった。『アメイジング・スパイダーマン』シリーズとか、『ジョーカー』とか、『ドクター・ストレンジ』とかは、大好きとは言わずともかなり楽しく観ることができた。どれもストーリー性が強く意識された作品だと思う。
そして今回の『ブラック・アダム』も、私の中では、こうした作品のなかに位置づけられた。

私が『ブラック・アダム』で感じたメッセージで最も大きなものは、どんな人もみんなヒーローになれる、というメッセージだ。しかし、こうしたメッセージは一種ありふれたものかもしれない。
では、『ブラック・アダム』の固有性はどこにあるのか。それは、ヒーローがヒーローたる能力を欠いている、というところにある。

世の中にはいろいろなタイプのヒーローがいる。たとえば、スーパーマンは力強くて空を飛べる。一方で、スパイダーマンはべつにゴリマッチョ怪力ではないが、軽やかな身のこなしと頭の良さで世界を救う。
いろいろなヒーローがいることそのもの=ヒーローの多様性は、よいことなのだ。だから、今までいろいろなアメコミ/アメコミ映画が、多様なヒーロー像を提示してきた。ただ、問題は、そのヒーローの特色に応じた能力を欠いてしまっている場合に生じる。
つまり、何かがあって、いきなりスーパーマンが飛べなくなってしまったり、スパイダーマンが糸を出せなくなったとき、彼らはみずからのアイデンティティを消失しかねなくなるわけだ。

『ブラック・アダム』の世界観におけるヒーローとは、反乱を起こして独裁者を倒したのちに、民衆を統治し、善政を行う為政者のことだ。ただ、その能力を持った人物とは、主人公テスではない。むしろ、テスの息子のほうだ。だからこそ、テスは作中でずっと苦悩するわけである。自分には為政者としてのヒーローの能力はない。ただあるのは怒りだけだ、と。
しかも、この「怒り」というのも特殊だ。過去の回想をみると、テス自身は独裁者の横暴な政治すら、仕方のないものとして受け入れてしまっている。だからこそ、反乱を起こすようなモチベーションすらない。為政者ヒーローの能力どころか、素質すら欠いていた。
つまり、怒りというのも、純粋に息子と妻を失ったことへの(当たり前の感情ではあるが、身勝手ではある)怒りだったわけである。

ここから考えると、テスという人物はヒーロー的役割を持たされているにも関わらず、ヒーローとしての能力を欠いているということがわかる。
これでは、「糸は出せないが運動神経はいい」ピーターパーカーと変わらない。もはやスパイダーマンではないわけだ。

『ブラック・アダム』の場合、テスと対照的な存在がJSAである。彼らは独自の能力を持ち、さらに自分の能力をよく理解し、活用している。
ただし、彼らの能力は、今回のような強大な敵に向かうには全く充分ではなく、ダメージを与えつつも空回りしているふしがある。
エリートではありながら、あくまで世紀の天才ではない。いいかえれば、彼らひとりひとりは、少なくとも『ブラック・アダム』作中において、人智を超えた才能を持つスーパーマンやアイアンマンほどのインパクトを持っていない。こちらは人体改造すらされていない人間だし。

だからこそ、JSAのメンバー内ではもちろん、テスとも協力しようとする。1人では難しくても、協力すれば立ち向かえることに気がつくからである。
これはすごい、と思った。だって、これってまさに、私たちの普段の生活じゃないか。
昔々、私たちはアメコミヒーローや仮面ライダーやプリキュアに憧れてきた。彼らはみな、圧倒的で特殊な能力を持った、選ばれた人たちだった。
だからこそ、彼らに憧れて、そのまま成長してしまった私たちは、苦悩することになる。
「私は特別な存在じゃなかったんだ」「スーパーヒーローは他にいて、自分はそうじゃないんだ」と、人生の節々で何度も気付かされる。

でも、そんな私たちであっても、無数の誰かと協力することで、社会に対して価値を生み出すことができる。
それが、私たち普通の人たちが、普段仕事をしている意味だ。

『ブラック・アダム』の真髄は、まさにそこにあると思う。
一般的な作品で「どんな人もみんなヒーローになれる」をメッセージとして盛り込むときには、みんながみんないいところを持っている!固有のいいところ!多様性!みたいな方向に持って行きがちである。
でも、『ブラック・アダム』はあえてそうしない。主人公たちの個性を、「ヒーロー適性なし」と「凡人に毛が生えたくらい」に収めてしまう。だから、どの戦いにしても、誰か1人で解決できたことはなかった。

そういうシビアなリアリティが、もう大人になった私たちに元気を与えてくれる。1人では成し遂げられないことでも、誰かとなら成し遂げることができる可能性を示してくれる。
そういう意味で、新しいタイプのアメコミ映画であると感じた。

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