『漁港の肉子ちゃん』望まれて生まれていなくても、望まれて生きることはできる

実をいうと、当初この作品を観る予定はなかった。というのも、邦アニメ映画だから。別に隠すことでもないが、ジ○リ映画や新海誠作品の醸し出す雰囲気が全般的に苦手なのである。だから、邦アニメはどうしても躊躇しがちである。
とはいえ、スタジオ地図作品とかはわりかし好きなので、とりあえず観ることにした。
そして、予想以上にずっとよく、ボロボロ泣いてしまった…

この作品の肝は、やっぱり肉子ちゃんの底抜けの明るさだろう。彼女の明るさは、フォレスト・ガンプを思い出させる(この話は、また次回)。

肉子ちゃんに似た立ち位置のキャラクターが、チック症と思われる二宮。肉子ちゃんとは対照的に、無口なタイプの彼。しかし、希望が詰まった町の模型をひたむきに作り続ける姿は、常に前向きだ。

そして、第二の主人公、キクりん(キクちゃん)。肉子ちゃんの娘である。この映画はキクりんの視点で語られるが、それもそのはず、彼女が思春期になり、肉子ちゃんに恥ずかしさを抱くようになるからである。他の子のお母さんはちゃんとしているのに、肉子ちゃんは平気で醜態を晒すし、それを笑って跳ね返してしまう。なんで自分の家はこんななんだろう、と思いつつも、肉子ちゃんが注いでくれるたくさんの愛に気がついている。


ところで、映画を見終わった時点でツイッターで感想を眺めてみたら、予想外に否定的な意見が多かった。どうやら、「誰もが望まれて生まれてくる」というメッセージが争点になっているようだ。
もちろん、虐待の経験や実親から捨てられた経験がある人は、こうしたメッセージを綺麗事のように受け取るだろう。
しかし、そもそもこの映画のメッセージは、本当に「誰もが望まれて生まれてくる」というものだろうか?たしかに、肉子ちゃんがそのように言うシーン(キクりんの入院時)はあるが、それは本当にその言葉通りの意味を持っているのだろうか。

つまり、なにがいいたいか。「望まれる」ことが生まれる前からなのか、それとも事後的なのかということをよく考えなくてはならないということなのである。
生まれてきた時に望まれていたのか、それとも生まれてきた時は望まれていなかったとしても結果的に生まれてきてくれて/今を生きてくれてありがとうということなのか、どちらなのかということだ。


肉子ちゃん自身は、キクりんに対して、前者(キクりんは望まれて生まれてきた)のだと伝える。けれども、キクりんが生みの親のことを肉子ちゃん以上に愛することはないのだ(だから、最終的に肉子ちゃんを選ぶのだ)。
つまり、肉子ちゃんは、キクりんが前者であると主張するけれども、キクりんはそのことに対してはあえて答えを出さない。そのかわり、後者であることを選択し、肉子ちゃんといま一緒に幸せに生活しているということ、肉子ちゃんにとって自分がかけがえのない存在であるということを、認識するのだ。

そして、二宮とまりあちゃんも、キクりんの存在をそのまま受け入れて、肯定してくれるキャラクターだ。彼らも肉子ちゃんと同様、ちょっと浮いた存在だ。二宮にはチックとおぼしき症状が見られるし、まりあちゃんは高飛車でちょっと空気が読めないところがある。しかし、キクりん自身が二宮とまりあちゃんを受け入れることで、彼らもキクりんを受け入れる。こうして、キクりん自身の存在が肯定される。

彼らによる肯定は、当然だが生まれてきたことそのものの肯定ではない。キクりんがどう生まれてきたのかは、彼女がふつうに生活している時には常に争点になっていない。彼らや肉子ちゃんなどがキクりんを愛することというのは、いまキクりんがこうして生きていることへの肯定なのだ。

だからこそ、私自身はこの映画を、「誰もが望まれて生まれてくるというわけではないかもしれない。けれども、生き続けていたら、今生きていることそのものを自分が肯定できるようになる/誰かが肯定してくれる。」という、後者のメッセージとして受け取った。

この読みをさらに補強してくれるのが、肉子ちゃん自身の生きざまである。
キクりんが肉子ちゃんのもとへ来る経緯が示されるシーンではじめて、肉子ちゃんの生い立ちが明かされる。そして、彼女の生い立ちからは、彼女自身が他者に望まれるような存在ではなかったことが垣間見れる。彼女の周囲にいた人たちは皆、彼女をただ搾取しようとしていただけであった(まだ友人であったころのキクりんの実母と、文学青年だけは、もしかすると違ったかもしれないが)。
けれども、彼女は今、明るく生き生きとして生きている。それは、彼女自身が自分を肯定しているから、そしてなにより、キクりんが自分を愛していることを知っているからだろう。
肉子ちゃんは望まれて生まれてこなかったし、キクりんと出会うまでは望まれて生きることもなかった。でも、キクりんの母として生きる自覚によって、肉子ちゃんは自分自身やキクりんや町の人たちから、肯定されて、今を生きている。

この映画の神髄は、今前向きに生きている人たちへの賛歌なのだと、私は思う。


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