『荒野の決闘』誰もが孤独のヒーローだ

正月前後に15本も映画を観た、と以前の記事(『時計じかけのオレンジ』)で書いた。実をいうと、1月はその後も少し時間があったこともあり、結果的にひと月で25本も観た(びっくり!)。
今回扱う『荒野の決闘』も、その25本の中の一本だった。
ノートでは、観た映画全てを考察・紹介するつもりはない。特に印象に残った数本のみを考察するつもりである。

クリスマスイヴに、今度の年末年始は映画をたくさん観ることにしようと決めてから、あまり観たことのないジャンルのものを数本観ることに決めた。
古典的な西部劇にはずっと興味があったが、かなり前に観た(ジョニー・デップが出ている)『ローン・レンジャー』で唯一記憶に残っていた「キモサベ」のイメージと、あとは銃でドンパチやるんだろうくらいのイメージしかなかった。まあせめて、なんらかの勢いでもあったら面白いかな、くらい。

そういう、かなり低い期待値で観たにもかかわらず、『荒野の決闘』は素晴らしかった。なにが素晴らしかったかというと、登場人物の完成度の高さだ。

『荒野の決闘』の主要登場人物は皆、なんらかの理由で、孤独さや哀しさを抱えている。つまり、辛い過去と辛い今を生きている。にも関わらず、最後には強く生きることを決意する。
というわけで、主要登場人物の背景とその生き様について、少し述べていく。拙文ながら、彼らの孤独さ・悲哀と、それを超克する力強い決意に意識して読んで頂きたい。

主人公ワイアットは、兄弟4人で牛を運ぶカウボーイだった。しかし、道中で牛を盗まれたうえ末弟を殺されてしまう。悲しみの中、犯人探しのため近くの町に留まることにしたワイアットは、町を牛耳るドクと出会う。裏の仕切り役ドクと、保安官となった表の仕切り役ワイアットは、一触即発の空気になるも、しだいに相棒になっていく。
しかし、町に淑女クレメンタインが来ると、状況が一変する。荒れたトゥーム・ストーンの町にはまずいないような、慎ましく教養ある彼女に、ワイアットはうっかり恋をしてしまうのだ。
そうこうしているうちに、牛泥棒かつ弟を殺した犯人が牧場一家であることを悟り、決闘することになる。決闘では、なにより信頼していた相棒ドクを亡くす。クレメンタインとくっつくには、ちょうどいい機会かもしれない。けれどもワイアットは男の友情を優先し、彼女にまたカウボーイに戻ることを告げる。つぎにトゥーム・ストーンに寄った時には挨拶すると約束し、旅立っていく。

ドクは、元々優秀な外科医だった。しかし、当時は不治の病である結核を患ってしまったため、誰にも言わずに故郷を去る。流れ者となり、たどり着いたのが、舞台となるトゥーム・ストーンであった。この町で、彼は賭博の元締めとして、実質的な町のボスになっていた。
彼を揺るがせたのは、やはり元恋人のクレメンタインがトゥーム・ストーンにやって来たことであった。部屋に彼女の写真を飾っていることから、ドクがいまでも彼女を大切に思っているとわかる。けれども、クレメンタインが大切だからこそ、結核をうつしたくないし、こんな治安の悪いところに居させたくない。そのため、故郷に戻るよう、何度も説得するのだ。
愛人チワワが牛泥棒に撃たれると、躊躇しつつも、ありあわせの設備でオペを始める。そのおかげかチワワは一度目を覚ますが、ほどなくして亡くなってしまう。医者としても未熟な自分に怒りが湧くドク。自分にできる役目を考えてか、決闘の心づもりを決める。
決闘では牛泥棒の一家を大きく追い詰めるものの、最後には死んでしまう。
物語の本筋からは逸れるが、ドクが舞台役者のかわりにシェイクスピアを誦じるシーンは、私の大好きなシーンだ。彼が教養人であることを再確認し、物語では直接語られない過去に思いをはせてしまう。

チワワは踊り子兼売春婦で、ドクの愛人だ。ドクは彼女のことを、結核がうつってもかまわない相手だと思っている一方で、彼女自身は本気でドクに恋している。けれども、クレメンタインの出現で、自分は所詮本命ではなく遊び相手だったことを悟ってしまう。大好きな人にどうしても振り向いて欲しい一心で、見栄を張ってクレメンタインに意地悪し、嫉妬させるためにドクの敵(牛泥棒の犯人一家のひとり)と寝る。
しかし、牛泥棒の情報をワイアットとドクに流したことが仇となり、チワワは撃たれてしまう。ドクとクレメンタインの必死の救助のすえ、一度意識を取り戻すも、ほどなくして亡くなってしまう。

次に、原題にもなっているクレメンタイン。彼女は都会で教育を受けたお嬢様だった。しかし、恋人で医者のドクが急に失踪したため、治安の悪い西部まではるばるやって来る。
トゥーム・ストーンにてドクを見つけたはいいが、ドクは終始冷たい態度をとる。ドクの「異変」から、彼がひどい結核に侵されていることを見てとってしまう。そしてなぜか、ドクの近くをふらつく変な女(チワワ)には理不尽に絡まれ、頼みの綱はワイアットだけになる。
その後、男どものごたごたに巻き込まれて、運ばれてくる負傷したチワワ。チワワに良い気持ちを持っているはずがない。けれども、彼女はチワワを精一杯看病する。そして、チワワを一生懸命治療したドクの心意気を褒め称える。
再び男どものごたごたに巻き込まれて、結局死んでしまうドク。
トゥーム・ストーンで悲惨なことばかり経験したにも関わらず、ここの地で教員になることを決めたクレメンタインは、ワイアットを清々しい面持ちで見送る。

登場人物たち全員が、なんらかの陰りを持っているという意味が、分かっていただけただろうか。
ワイアットは財産の牛をすべて無くしただけでなく、結婚の決まっていた末弟を亡くした。
ドクは結核になり、誰にも迷惑をかけず一人で死ぬため、すべての過去を捨てた。
チワワは最愛の人がほかに大切な人を持っていたことを知った。それどころか、自分のことを遊びだと思っているから、病気がうつっても構わない女だと思っているから、ドクは一緒にいてくれるのだということに気がついてしまう。
クレメンタインは突然去った婚約者を求めてすべてを捨てるも、やっとの思いで見つけた婚約者が深刻な結核を患っており、もう元の生活に戻れないことに気づく。
うまくいかなかった過去。あきらめきれない未来。

けれども、それと同時に、したたかな強さも持っている。
だって、見渡す限りの荒れ地にある小さな町で暮らすには、強くなくちゃいけないから。
だから、ドクは封印していた医者業を再開し(=過去と向き合う)、チワワを治療する。
ワイアットとドクはすべてを賭けて決闘に挑む。もう誰にもつらい思いをさせたくない。自分たちの手で悪を成敗するのだ。
ワイアットはクレメンタインがドクのことをいかに愛していたかを汲み、最後まで自分の気持ちを隠したままにしておく。
チワワは、劣悪な環境で限られた資源で挑むしかない手術を終え、すぐに目を覚ます。その後すぐ亡くなったということは、かなりきつい状況だったのだろう。にもかかわらず、目を覚ました時には
チワワ:「Hi, Doc」
ドク: 「You're alright. You've been a brave girl.」
という会話を交わしている。ドクを気遣い、つらさを悟らせないことを思えば、いかに彼女がbraveだったか実感させられる。
クレメンタインは、なかでも一番強い人だと思う。都会育ちの彼女が、アメリカを横断し、トゥーム・ストーンまでやってくる時点で、本当にすごい。しかしそれだけではない。ドクの現状を知った後に、何度ドクに帰るよう促されても、自らの意志でトゥーム・ストーンに(ドクのそばに)居続けようとすること。自分に難癖をつけ、ドクをわが物のように扱うチワワが負傷したときにも、看護師として親身に看病すること。ドクが亡くなったあとにも、自分の役目を見つけてトゥーム・ストーンに残り続けること。
ただひたすらに強い。

ところで、こういう構図を前もどこかで見た記憶があったな、と思い、はたと気づいた。漫画『ゴールデン・カムイ』である。
以前から、『ゴールデン・カムイ』の「和風闇鍋ウェスタン」というキャッチコピーについて、和風もわかる、闇鍋もわかる、ではなぜウェスタンなんだろう?ということで、正直あまりピンときていなかったのだ。西部劇には汽車での決戦が多いとか、某場面が『荒野の用心棒』のオマージュだとかいうのは聞いたので、なんとなくは納得していたが、根本的な意図はつかめないままでいた。

ただ、今なんとなくピンときている仮説がある。
「ウェスタン」=西部劇とは、流行病や治安の悪さゆえ、場合によっては家族と離れたり死別したりして孤独を抱えつつも、過酷な自然や先住民に打ち克とうとしてきた当時の人々の強かさの象徴なのではないか。
そして、「和風闇鍋ウェスタン」は、『ゴールデン・カムイ』の登場人物たちが皆、明治時代はまだ未開拓だった北海道という過酷な地で、複雑な感情を抱えながらも強く生きていることを示唆しているのではないか。

西部劇をそのように捉えると、『荒野の決闘』の原題が『いとしのクレメンタイン』なのも納得できる気がする。彼女のオリジナリティは全く西部の住人ではない(ニューヨークと言っているから、むしろ東の住人だ)にもかかわらず、彼女ほど西部の男気にあふれた登場人物は作中にいないだろう。

ちなみに、『荒野の決闘』の「決闘」というのは、かの有名な「OK牧場」の決闘である。そういう意味では、ネタ元として興味本位で見てみてもよいかもしれない(そのくらい面白かったし、万人受けする映画だと思うので)。ご本人は、かの決めゼリフを「ララミー牧場とOKとの合成語」だと公表しているそうだが…

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