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犬と呼ばれた哲学者 ディオゲネスのエピソード

ホームレスと世界の王…

もし神様が現れて「世界の王か、ホームレスか、どちらかにしてやろう」と言われたら、どちらを選ぶだろう?
「そんなの決まってるじゃねーか! 自分からホームレスを望む人なんているわけない!」
そんな声が聞こえてきそうだが、少しばかり立ち止まって考えてもらいたい。

なぜなら、古代ギリシャには、あのプラトンをも論駁した、肝いりの哲学者ディオゲネスという男がいたのだから・・・

頑固で偏屈 樽の哲学者ディオゲネス

この人物は、なかなかクセのある頑固者。他人の嫌がることをわざと言ったり、あげ足をとったり…人々が眉をひそめるエピソードが出るわ出るわ。
山にこもった人間嫌いの哲学者というステレオタイプを地でいったような人物である。

こんな人物がなぜ高名な哲学者として後世に残ってしまったのか。
まずはプラトンとのやりとりで有名なエピソードを見てみたい。

エピソード1 プラトン論破! というか、プラトン雑すぎないか!?

プラトンソクラテスの弟子であり、アリストテレスの師匠でもあります。
「哲学を遡ればプラトンに通じる」という言葉もあるほどのビッグネームである。
ある時、プラトンは「人間とは羽のない二本足の動物である」という述べる。人類初の人間の定義のぶち上げである。
現代に生きる我々は「おいおいw なんだよそれw」って思えるが、当時の人々はこれに喝さいを与えてしまう。
なんて純朴なんだろう・・・
しかし、そんななか、周囲におもねることのない一人の男がいた。ディオゲネスその人である。彼はこのプラトンの言葉を聞くと、ニワトリを捕まえ毛をむしり取り、プラトンの前に突き出したとか。
「お前のいう人間はこれかな?」と言ったところである。
古代ギリシャにおける哲学者同士の議論の応酬。
これほど知的なニオイのしない論争がこれまであっただろうか。

エピソード2 頑固な師匠をねじ伏せた!?

ディオゲネスがまだ、若いころ、アンティステネスという高名な哲学者に弟子入りしたいと望み、彼の門を叩いたときのこと。
アンティステネスは弟子をとらない主義だったので、ディオゲネスに対してもそっけなく断っていた。
これに屈せず、ディオゲネスは何度も何度もしつこく懇願したが、アンティステネスは、あまりのしつこさに辟易し、ついに激怒し、犬を追っ払うかのように持っていた杖を振りかざす。
しかし、ディオゲネスは落ち着いて、アンティステネスに自らの頭を差し出し、
「先生、どうぞ気の済むまで私を打ちたまえ。さすれば、その杖も私を追っ払う程、頑丈にはできていないことがわかりましょう」
これにはアンティステネスも参ってしまい、結局ディオゲネスはまんまと弟子にしてもらうことに成功したという。
頑固なお師匠様にあの手この手で入門を目論む若者…というのは現代のフィクションでも割とよく見るストーリーだが、その源流はここにあったのかもしれない。

エピソード3 犬と呼ばれた哲学者

外見や世間体には一切気にかけなかったディオゲネス。人の集まる街頭での飲み食いも何のその。
ある時、いつものようにディオゲネスが道端でお行儀悪く食事をしていると、物珍しさにワラワラと人が集まり、「おい、見ろよ!あんなところで犬が飯を食ってるぞ!」とはやし立て嘲笑を浴びせた。
それを聞いたディオゲネスの目はキラリ!と怪しく光り、「おいおい、人様が食事をしているところに集まってくるとは、お前たちの方が犬みたいじゃないか」と言い返し、笑っていた人々はぐうの音もでなかったという。
口達者なディオゲネスに声をかけたのが失敗ではあるが、むしろディオゲネスという男、民衆を遣り込めるためにわざと人々の嘲笑を買うようなことをしたのではないだろうか。
あたかも現代の炎上商法であるというのは言い過ぎだろうか。

最強のエピソード アレクサンドロス大王との出会い

エピソードには事欠かないディオゲネスだが、その中でも白眉といったものがアレキサンドロス大王とのやりとりである。
広大な領土を治めるアレキサンドロス大王は、多くの戦争を繰り広げる中、コリントスに滞在した時のこと。
当時、多くの賢者、学者と言う人物は大王が来たと聞くと、「我先に!」と大王のご機嫌を伺うかのように先を争って集まってくる。
ところが、ディオゲネスだけは、大王の元に現れなかったのです。
不審に思ったアレキサンドロス大王は、ディオゲネスに興味を持ち、やがて自ら町に出て会いに行くことに。大王が一人の人間に会いに行くなんて当時にしてもとんでもないこと。
今でいうと、天皇と総理と大統領が、そろって田舎の塾講師に会いに行くと言った感じだろうか。
そんなこんなで、大王はディオゲネスのところに行くと、彼はダラダラと横になって日向ぼっこをしている最中。のんきなものである。

「余はアレキサンドロスである」
と堂々と語りかける大王に対し、ディオゲネスは、
「余は犬のディオゲネスである」
と応じたと言う。
うん、なかなか気持ちのいい男である。

おそらく出鼻をくじかれたであろうアレクサンドロス大王は、気をとりなおし、ディオゲネスに、
「何か欲しいものはないか、願いを適えてやろう」
と尋ねる。

普通に考えれば、大王と話ができるだけですごいこと。
これに対してディオゲネスはぶっきらぼうに言い放つ。

「日陰になる、そこをどいてくれ」

大王も魅せられたディオゲネスの生き方

「日陰になる。そこをどいてくれ」

この言葉を聞いたアレクサンドロス大王は後に、
「余がアレクサンドロスでなければ、ディオゲネスになりたい」
と語ったと言う。

世界の多くを手に入れ、誰もが憧れるような光輝く存在となったアレクサンドロス大王も、きっと多くの難題を抱え、心が落ち着く間もなかったことだろう。

一方のディオゲネスは樽(たる)を自分の寝床にするというホームレス同然の生活。ただ、ディオゲネスは富や名誉、人間関係さえも一切捨てて心の平穏を第一と考える。これはエピクロス的生き方に通じる、ある種の理想の身の処し方でもある。

言わば全く対極にある二人。この二人が対面したのはほんのわずかの時間ながら、少なくともアレキサンドロス大王の方は、かなり強い哲学的印象を得たのではなかろうか。

とすれば、古代ギリシャのディオゲネス、ただの口の悪いにくまれジイさんではなさそうである。


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