OWCモノローグ)桃源郷 by 桐ヶ谷忍+花緒

(女性向け)
 
桃を手に取りました。
じっと桃を見つめました。
その瞬間、私はあの人を思い出していました。
 
桃が好きだったあの人…
もうこの世にはいないあの人…
 
気づいたら私は桃に指を食い込ませていて、
桃は醜く、ぐしゃりと握りつぶされていました。
 
桃の汁がスーパーの床にポタポタと落ちています。
周りからヒソヒソ話が聞こえてきます。
 
お母さん、あの人何しているの?
しっ見ちゃダメだよ。
でも、お母さん、あの女の人、桃を握りつぶしているよ。
いいから、こっちきなさい。
 
小さな声に紛れて、そうです、
紛れもなくあの人の声が聞こえてきました。
 
おい、桃を食べさせてくれよ。
 
私は反射的に桃を床に投げ捨てました。
 
スーパーの客が悲鳴をあげています。
散り散りになって逃げていきます。
逃げていく客の中に、あの人がいたような気がして…
 
 
ふらふらとあの人を探していました。
あの人がどこかにいたような気がして…
 
気づいたら、私はもう一つ、
桃を手に取っていました。
じっと桃を見つめていました。
その瞬間、私はあの人を思い出していました。
 
 
桃が好きだったあの人。
食べたいとせがまれたけれど、
桃を食べさせたら
なぜだか死期が早まるように思えて。
食べさせてあげられないまま、
結局、あの人を逝かせてしまったのです。
 
 
おい、桃を食べさせてくれよ。
 
どうして私はもういなくなってしまうあの人の
そんなささやかな願いも叶えてあげられなかったのか、
自分でもよく分からないのです…
 
どうして…
 
 
だって!!!
桃を食べたら、早く死ぬと思ったのよ!!!
 
 
 
気づいたら、もう一つの桃も握りつぶしていました。
 
桃の汁がスーパーの床にポタポタと落ちています。
周りからヒソヒソ話が聞こえてきます。
 
しっ見ちゃダメだよ。
おい、いいから桃を食べさせてくれよ。
 
 
私は早くも茶色に変色し始めている桃を拾い上げ
汁で手を濡らしながらスーパーの店員を探しました。
 
弁償しますから、と見せたら
店の奥まで連れて行かれ
あなたこれで何度目?病院に行きなさいよ、と言われて。
 
 
「病院に行きなさい」
何度目でしょうか。
 
病院。
 
病院に行ったってあの人はもういないのに。
うふふふ。
不意にこみあげた笑いを隠そうと手を唇に当てたら、
桃の香り。
 
 
ねえ?
桃を食べたら、本当に早く死ねるのかしら?
 
 
私は今度こそひとつそっと桃を手におさめ
レジへと向かったのです。
 
 

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