40年目の反省リスト(23)2007~08年
2007~08年頃は、様々な転機が重なった年だった。
まとめきれないので箇条書きにする。
★トーチュウの4コマ連載が終了
2007年8月をもって「竜党あっぱれ計画」が終了した。7年8ヵ月。
これをもって、東京中日スポーツでの仕事も終わった。あ、このあとマスドラ会の広告イラストが2回ほど掲載されたか。
そしてトーチュウも来年1月限りで紙媒体での刊行からの撤退を発表。
22年お世話になった故郷が無くなるのは、ただただ寂しい。
★桃園書房が倒産
「問題実話」やパズル雑誌他各種連載で、20年間これまたお世話になり続けた桃園書房が、2007年秋に倒産して雑誌連載も終了。
大きい会社ではなかったが、初めて面識も無い私に仕事の依頼をしてくれた、いわば私を初めてマンガ家として認めてくれた出版社だった。
★書籍の仕事が途絶えた
1998年からなんだかんだで毎年続いていた書籍の絵仕事依頼が、2007年にはとうとう1件も無くなった。書籍仕事ゼロは2009年まで続く。
★仕事仲間の夭折
2007年11月、スタジオHEGEの吉沢晃一くんが40代前半の若さで他界。
この年を限りにスタジオHEGEも終了。
★落語4コマ活動スタート
出版社への4コマ原稿持ち込み用に、古典落語をそのまま4コマ形式で進行する「落語4コマ」をこのころ執筆しだした。『崇徳院』と『たぬき』。のちに発行する「落語まんが寄席」に掲載した原稿である。
この持ち込みをきっかけに、2008年からパズル雑誌「漢字道」(インフォレスト、のちイード)にて「漢字道寄席」の連載をスタートさせてもらい、系列誌「まちがいさがしキング」でも2013年から落語4コマによる出題を続けさせてもらっている。
「落語だけのコミック雑誌を作りたい!」という夢は、2008年頃から抱き続けた。東京から去る2013年以降も出版社への企画出しなどで動き続けていたが、さすがに近年の出版斜陽を目の当たりにしては諦めざるを得ず、1年ほど前、自分の心の中でピリオドを打った。
★グループ展に初参加
マンガ家のいご昭二先生の紹介で、2008年8月に「日本漫画2008展」(銀座地球堂)、同年10月に「デジタルポンチin浅草2008」(テプコ浅草館)にそれぞれ初めて参加させてもらった。
この体験と前記の落語マンガに対する強い思いが、のちに「寄席描き展」として一つに繋がる。
★ネット記事仕事を開始
マンガとは別に、2007年からWebライターの仕事探しも本格的に始めた。
このころは紙媒体並みに厚遇な仕事もしたっけ。本職とは別に「内職」と言ってたけど、数年後にはこっちの仕事時間の方が長くなる。
★ネットで4コマを描き始めた
トーチュウの連載が終わった翌月から、出版社への持ち込みと並行して、自分のブログでキャラもの4コマ「ロヂウラ」の連載を開始。
ただSNSでなく個人ブログでの連載というのは、ビックリするくらい手応えが無くて、モチベーションがもたず5ヵ月で一旦終了。それでもキャラは捨て難く、何度か続編を描き、2016年にはnoteでも公開した。
★あと個人的には、仕事がドッと減ったので持ち家(マンション)を売却して同じ区内にの賃貸に引っ越したのが、2007年の秋。
この時購入した地デジのテレビが今月になって故障して、これを書いてる数週間前に買い換えた。アナログチャンネル付きテレビよさようなら。
落語脚本の方は、口演実績は着実に増えていたけど、それを契機にステップアップするわけでなく、基本趣味状態のまま。
あ、落語といえば、2007年の春に真打昇進した春風亭柳太郎師が作った記念グッズの絵を描かせてもらった。
この2年、いま改めて俯瞰で見ると、仕事を始めた1984年や愛知に戻った2013年よりも、自由業人生としての節目だったように思う。
反省する間すら無く、時間が激しく流れた2年であった。
(第23回・了)