むかし日本はレースの輸出国だった。
ほんと? とお思いでしょうか。これは本当のことなんです。明治から大正にかけて、日本人の手編みしたレースが海外へ輸出されていました。
このことを知ったのは、過去に集めたレース編みの本と「柴田たけ子」先生のおかげです。柴田先生は、昭和24年にレース・編物学校「霞ヶ丘技芸学院」(ちなみに今の学院長はあの広瀬光治さん)を創設された方で、そのお名前は昭和の本の中でよくお見かけします。
この柴田先生が昭和29年に『レース編独習書』という本を出されました。その序文が興味深いので、一部を引用してみます(原文は総ルビ)。
いかがでしょうか。今では考えられないことですが、明治大正の時代には、レース編みは外貨獲得の手段として奨励されていたことがわかります。それは一種の「国策」でさえありました。そのことは、柴田先生の別の文章からも読み取れます。講師を務められたラジオ番組のテキストの一部です。
つまり明治の日本には「官立レース学校」が存在しました。政府が英国婦人を招いたとありますから、いわゆる「お雇い外国人」には女性も含まれていたわけです。いったいどうやって人選したんですかね。
柴田先生がサンプルを作られたという輸出用レースがどんなものだったか、せめて写真を見たくて探しましたが、今のところ見つけられていません。そのかわり、近くの公共図書館に『農商務省第三回図案及応用作品展覧会図録』(大正4)というものがありました。下の2枚の写真は、その中にあったレース編みの作品です。どちらも東京の「西村敬蔵」という方が出品されています。
ごらんのとおり、かなり手のこんだレースですね。100年以上前に、日本人によって編まれたものです。今もどこかに残ってるのでしょうか。残っていないとしたら、どうなってしまったのでしょう?
それにしても当時の日本は、さぞかし人件費が安かったと思われます。「ゼロから教える手間と費用をかけてでも、日本人にレースを編ませよう。そのほうが儲かる」と考える西洋人がいたわけですから。考えてみればその人は、日本の編物界にとっては恩人かもしれません。日本に編物が普及したのは(少なくともその理由の一つは)そういう人がいたから、のはずです。
遠いむかし、多くの日本女性が家族のために編物をしていた時代がありました。私が母から編物を教わることができたのも、そういう時代があったおかげです。いまの日本で高品質の糸や針が手に入ることも。「官立レース学校」と令和のレース編みはつながっているのだと思います。
それはいいんですけど……!
「むかし日本がレースを輸出していた」という事実を知ったことは(もうだいぶ前ですが)、個人的にはけっこう衝撃でした。つまりこの事実は「自分が買った『アンティークレース』の中には、日本製が含まれてるかもしれない」ということを意味するからです。
生まれて初めて海外旅行をしたのは1995年のこと。行き先はドイツ、スイスでした。
行く先々でアンティーク屋さんを探し、小さくて安いレースを手に入れては喜んでいました。下の写真は、特にお気に入りのアイリッシュクロッシェです。買った場所はミュンヘン。値段は忘れましたが、貧乏学生でも手が届く範囲でした。とても細い糸で編まれていて、直径わずか19cmほどの大きさです。
ひょっとして、ひょっとしたら、これが日本製かも? そう思うとすごく複雑な気持ちです。なんだか騙されたような、でもすごくうれしいような。柴田先生のおっしゃる「鈎針編みの皿敷」って、つまりクロッシェレースのドイリーですから、これがそうだったという可能性もなくはないわけです。
まあとにかく、誰が編んだにせよ、レースの美しさに変わりはないですよね。そういう普遍的なところが好きです。レースのおかげで昔の人や、外国の人ともつながれるような気がします。
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