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ラブホテルと戦跡

「自動車ホテル 山谷園」の大きな看板は、当時、実家から那覇方面に行く際、必ず通る道沿いにあった。看板に書いてある漢字が読める年齢になった頃、車内前方に座る両親に尋ねたことがある。

「自動車ホテルって、車の中に泊まるの?それとも車が泊まるホテル?」

どちらでもないという答えが返ってきた覚えがある。それよりも、普段子供からの質問には明瞭に答え教え諭す傾向のあった両親の口調が、その時妙に不自然だった印象の方が記憶されている。以降、山谷園の看板に目を留める度に、大きくなって運転免許を取ったら確かめに行ってみようと思っていたが、もっとずっと後に、車を運転出来るようになっても、ひとりでは行ける場所ではないと知った。

1980年代後半、山谷園はすでに古ぼけたラブホテルだった。山谷園の斜め向かいにも同じようなラブホテルがもう1軒あり、隣町の丘一帯にあった欲望や罪悪感をパステル調のデコレーションで薄めたホテル群に比べると、廃れた趣が濃かった。

その昭和があと何年かで終わるという日々から、31年続いた平成を飛び越えた令和に、私は山谷園の前にいた。徒歩で。ひとりで。

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前からこんなのあったっけ?入り口付近には、いろいろな想像が可能なオブジェがあった。建物はそのままで、外観は知っていた頃よりもすっきりした感がある。道路の向こう側のラブホテルもまだ残っていたが、名前が昔とは違う気がした。

この日の行き先は、嘉数高台。山谷園から歩いて約10分のところにある戦跡である。中学生の写生大会で一度訪れただけで、その後は、実家から空港に向かうバイパスから小さく見える水色の展望台をなんとなく眺めるだけだった。

生まれ育った市内の戦跡なのに、昭和50年代の小中学校で嘉数高台について教えられたことはない。島ごと戦場で戦跡だったからかもしれない。知っているのは、夜の展望台には不良か幽霊がたむろしているという噂や、戦没者に京都出身者が多かったので「京都の塔」が建てられているということぐらいだった。

昨年、「子供の頃に行ったきりの場所を再訪する」という試みを始めた。その場所のひとつに嘉数高台を加え、事前に歴史背景を知っておこうと検索してみると、上位にWikipediaの「嘉数の戦い」があった。

「嘉数の戦い(かかずのたたかい)とは、太平洋戦争末期の沖縄戦において、嘉数高台をめぐって1945年4月8日(7日)からの16日間に行われた戦いである。この戦いは沖縄戦最大級の戦闘の1つとしても知られるほどの激戦であった(前田の戦い他を含むことがある)。日本軍は低地に「反斜面陣地」を構築して米軍に劣る火力をカバーし、頑強に抵抗したため、嘉数は米軍からは「死の罠」「忌々しい丘」などと呼ばれた。

4月初旬から末までというと、5月の梅雨の少し前、すでに緑は濃く、日差しが強く眩しい「うりずん」と呼ばれる過ごしやすい季節の終盤。そんな気持ちのいい時節に、小さな高台を巡って両軍合わせて6〜9万人の死傷者を出す戦闘が行われていた。数字に煽られてクラクラする。

そして。

嘉数に投入された第62師団独立混成旅団には京都出身兵が多く(約3500名)、そのほとんどが故郷を見ずに嘉数にて戦死しているため、“京都の塔”が建てられている。この塔の建設には当時は京都府園部町長で京都府町村会会長であった野中広務が尽力し、実際に訪れた。嘉数高地を訪れた野中は戦争反対・平和への想いを強くしたという。なお、京都兵の次に多かったのが福井兵であり、約1100名。福井兵の多くは後退したが、摩文仁にて京都兵と同じく故郷を見ずに最後を迎えた。そのため、京都の塔とは違って“福井の塔”は摩文仁に所在している。62師団の8個大隊のうち、実に5個が福井県の敦賀市で編成、残り3つが京都府にて編成。その編成地のため募兵が両県地域に掛けられ京都兵と福井兵が多くいたのである。

京都と福井県の敦賀あたりの話し方は似ていると聞いたことがある。とすると、75年前のあの16日間、あの高台では(広義の)関西弁が飛び交っていたのではないか? そんな不謹慎かもしれない想像をしてしまう私は、現在京都府に住む中途関西弁話者だ。

嘉数高台を訪れたのは、2020年1月中旬。展望台のふもとにあたる場所は、公園としてきれいに整備されていた。

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階段を登ったその向こうには海が見える。この西海岸のどこかから米軍が上陸して進軍してきたのだなと考える視界には、安室ちゃんのラストコンサートが行われた沖縄コンベンションセンターの灰緑色の屋根がある。

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ここでの戦いが終わった後、戦闘は向かいの丘(おそらく浦添市前田あたり)へと移っていったのかもしれない。そこからさらに南西に下ると旧日本軍の司令部壕があった首里城がある。

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昼寝中のオオコウモリを見つけた。日中見かけるのは珍しい。

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展望台の周りには、京都出身者、嘉数地区の住民、島根出身者、朝鮮半島出身者の慰霊碑があった。様々な場所で生まれ育った人達の生がここで終わったのだ。鎮魂のために、忘れないために、時を経て新たに知るために立つ碑。

中学生の私は展望台には登らなかったと思う。なぜなら、この景色を見たら忘れるはずがないからだ。

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上の写真の滑走路を挟んだ左側あたりに普天間中学校がある。中体連の応援に行った際、知り合いの在校生に誘われ校舎の4階あたりから普天間飛行場方面を見た時の衝撃を今でも覚えている。

「えっ、小学校(普天間第二小)があんな近くにある。大丈夫なの?!」

市の中央部にどっかりと米軍基地がある宜野湾市の中で、私の実家は基地から若干距離がある。軍用機の騒音は日常的に聞かされていたが、同じ市内在住でも日々米軍基地の存在をどのように体験し、どう認識しているかは異なる。

展望台には、望遠レンズを滑走路に向けた三脚が2台と、離発着時のシャッターチャンスを伺う人達がいた。公園として整備された場所では、高校生だろうか勉強道具を広げる制服姿の男の子がいた。ヒカンザクラが咲き始め、ウグイスが落ち着きなく枝を移動する風のない温かな冬の日、上着を脱いで腰に巻き半袖Tシャツとネルシャツになってもまだ少し暑かった。

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最寄りのバス停に戻る途中にすこし寄り道をした際、山谷園の建物の側面の外壁にこんなものを見つけた。

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「人間は常に若若しく 心はひろくまるく美しく」

つい、笑ってしまった。徒歩だとなんとか全部読めるが、車中からは難しいだろう。それに、ここは正面入り口ではない側道沿いだ。山谷園を訪れる車中の人には気付いてもらえない可能性が高い。誰に見て欲しいんだろう?と思ったところで気づく。壁は、高台に向けて無邪気なメッセージを掲げていた。心はひろくまるく美しく。

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