ことばのただしさ

「日本語の間違いを指摘する」という行為について、賛否の声が上がる場面を何度か目にしたことがある。

 「なしくずし」だとか「役不足」だとか「話のさわり」だとか、誤用が広まりそのまま定着した日本語というのは多くあり、これについて「もう広まっているから誤りとは言えない」ということを言う人がいる。

 かくいう私もそう思う。
 言語とはコミュニケーションツールであり、相手に的確に伝わるかどうかということが最も重要で、正しさとはそこに準じるように思う。
 それから「言語は生き物」などと言われることもあるように、時の流れと共に変わっていくもので。今使っている言葉というのも、元来の日本語からすれば誤用に塗れているはずで、しかし誰もそれを咎めないということ自体、言葉の正しさが人々の認識に準じている証拠でもあると思う。 

 個人的にそういう意見を持つ一方で、
 なんでもかんでも「別にどうでもいいでしょ」という風に言われると、それは違うだろうと思うし、非常に嫌な気持ちになるところがある。

 例えば、「すいません」。
 正しくは「すみません」であるけれど、これを使う場面が友達間の冗談なんかではなく真面目な謝罪である場合、正しい方を使うべきだと思う。
 「すいません」には誤用とあって失礼なニュアンスが含まれてしまうからだ。日常会話ならどうでもいいことも、少なくとも謝罪する場面では、一般常識レベルの日本語は正しく使ってほしい気持ちがある。

 それから、少し前に流行った「蛙化現象」。
 好きだった相手が自分を好きになった瞬間、相手を好きではなくなってしまうという現象のことだが、若者の間ではただ「好きな相手に冷める」という意味で広まった。

 この現象は半分精神的な疾患とも言えるところがあるため、誤用を見る度にイライラする。自分の知人に、本来的な意味での蛙化現象を何度も起こしている子がいるからだ。

 前提として、どちらの意味であれされた方はたまったもんじゃない。確かにその通りだ。ただ、「自分なんかを好きになる相手は見る目がない」との感覚に陥ってしまい、毎回誰とも結ばれることの出来ない知人を可哀想に思う気持ちもある。そしてそれを本人は本気で悩んでいる。

 だと言うのに、冷めやすいだけの人間に免罪符のようにその言葉を使われると反吐が出る。例えるなら普段から兆候があるわけではなく、たまたま遅刻しただけのことを「ADHDだから」と言う奴に対する嫌悪感に似ている。誤用していい言葉ではないと思う。

 だが、わたしが始めに主張した「言葉は生き物」という論調を使って、都合よく何でもかんでもOKということにしたがる輩がいる。

 逆に、「この誤用はよくない」ということだけを話すと、「言葉は生き物」という考え方を持っていない人だと思われることが多く、バイアスによって勝手な二極化のうちへ割り振られることが非常に多い。
 「どっち派なのか」という、内容ではなく立場を 発言から勝手に想像し、そこから内容を歪めて受け取る。

 違う。根本はそこじゃない。重要なのは内容であり、今回の話では「相手に伝わるかどうか」なのだ。「相手がどう思うかを考える」ことなのだ。

 個人的に、話す時、主張と一見相反するように思われる自分の思想や立場といった情報は事前に明かすことが多い。これによって、「こいつはこの立場だからこう話している」というバイアスを避けることができ(こちらの発言にバイアスがかかっていない証明ができるとも言う)、内容にフォーカスを合わせてもらうことができるからだ。

  そして日本語表現に話を戻せば、これも結局「相手がどう思うかを考える」の一部ということになる。

 基本的に、自分の伝えたいことを、相手に受け取ってほしいように受け取ってもらうことが、言語の根本的な目的だと思う。そこには受け取る側の知識や考え方、互いの関係性などが深く関わってくるため、「正誤」というような明確な基準を持たせることは極めて難しい。だから、上手く伝えられなければ誤、伝わっていれば正というほうが良いと思う。

 そしてそこには、間違いなく「伝えよう」という誠意や丁寧さがあるわけで、私はそれを大切にしたいというか、それがない人に日本語表現をどうこう言われたくない。
 「言葉は生き物」との考えを免罪符に言葉を乱雑に扱うことも、「正しい日本語を必ず使わなければならない」なんて考えに縛られて伝わりやすい言葉を攻撃することも、正しさではないと思う。

 ついでに、相手にバイアスがかかっていると思い込むのは、自分自身のバイアスによるものなので、気をつけて頂きたい。内容を精査し、あからさまに間違っていた場合にのみ相手のバイアスを疑うべきですね。

 バイアスがゲシュタルト崩壊。

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