孤独のよせあつめ
星野源(敬称略)の記事を書く息抜きに星野源の話でもしようかな。キモ。オタクすぎん?というやつです。
いやいや待って、ドン引かないで。
まあひとつ聞いていってくださいよ。
心はひとつにならないし、似ているようで重なり合っているだけだし、人はどれだけ経ってどんなに願ってなにをしても、ずーっと孤独で、独りでしかない。
……というメッセージが、星野源を追いかけていると一生出てくる。
星野源が書く詞は、「ひとつにはなれないから」とか、「僕らずっと独りだと諦め進もう」とか、「世界はひとつじゃない」とか、そんな言葉にあふれている。
でも別に星野源はそれをマイナスなこととして表現しているわけじゃない。どちらかというと肯定して、ポジティブにそう言っている。
特に顕著にそれを綴る「ばらばら」という曲を聴いて、中学の頃の私はびっくりした。
なにせ世間的に言えば「心をひとつに」というのはとってもキャッチーなフレーズで、沢山の人が同じ方向を向くという意味ではとても良いこととして捉えられていた、
そんな中で、「心はひとつにはならないよ」と、マイナスな意味でなく単にそう表現してのける星野源に、ああそうかと、ただただ驚かされ、納得させられた。
人はひとつになろうとする、ひとつになれると期待してしまう節があると思う。
誰かとふと気が合って、こころが通ったと思うとき、きっと相手と自分とが同じであると、期待を込めて思い込む。同じであるから、何を言っても分かってくれるはずだと思う。
全てわかってくれる相手がいる、即ち孤独ではないと思う。思いたくなる。
だけどそうではない。
相手と自分の世界観が重なったからといって、相手と自分がすべて同じにはならない。
重なり合ったそのなかに、ただひとつ、相手と自分に心地いい世界があるだけだ。
だからこそ、他人を思いやれる。
心地いい世界を守るために、そこからはみ出した相手だけの世界に関しては、自分には分からない、分かれないことをちゃんとわかった上で、それでまず、知ろうとしたりする。
お互い、全てをわかってくれる相手でもなければ、そんな相手を他に持ってもいない。
孤独な二人がいて、同じように孤独で、だからたしかにずっと「独り」だけど、「孤独はひとりではないって いえる!」(さらしもの/星野源)んじゃないのか。
孤独なのは、自分ひとりではない。そもそも孤独って、人がいないとできない、とも源さんは言っていた。
だから孤独で独りなのはみんな当たり前で、ひとつにはなれない。それでいい。大丈夫。
そういう意味に、私には思えた。
その概念に中学の頃の自分が良い意味でショックを受けたのは、自分が少なからず「ひとつになろうとしていた」、そしてその努力を求められることに疲弊していたからなんだと思う。
自分には昔から協調性や社会性がない。
だから、「みんなと同じになりなさい」と求められることが、「孤独であることはいけないこと」と見せるようなあのせまいせまい教室が、ずっと窮屈でくるしかった。
星野源の音楽はずっと、もうずっと。
どこからもあぶれてひとりぼっちの、外れ者だった過去の星野源に、
どこからもあぶれてひとりぼっちで、外れ者として今生きているひとたちに、私たちに、
励ましでも応援でも慰めでもなく、
ただ「肯定」をくれている、そんな気がする。
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