「現実が見えてる」のがかっこいい?

 今年の春から高二になるJKですが、私がいわゆるLJC(ラスト女子中学生=中3)の頃にずっと思っていたどーでもいい「かっこよさ論」を書いておきます。

 私は多感な時期なのです!

 自分で言いますが、中学〜高校は多感な時期ですよね。と、まぁ、大人が納得しやすいように一言でまとめてしまうのにはどうにも嫌悪感があるんですが、やっぱり多感な時期です。
 その理由は多分、世界平和は訪れない、夢は簡単に叶わない、現実は簡単に変わらない、そういうことを目の当たりにする時期だからっていうのもあるのかなーと思います。でもだけど、夢見てたいじゃないですか。

 ようするに、子供と大人のはざま。

  んで、そんなわけだから、この辺で人間は妙に「現実主義者」みたいになってきますね。
 「どうせサンタなんかいないんだぜ」みたいな。それはちょっと幼稚すぎるかもだけど、「そんな理想論言ってもどうしようもないだろ」みたいな、「そんなの綺麗事だよ」みたいな。そういうの、言い始めて。

 それがオトナで、自分は現実が分かってる、見えてるって「正しさ」で、ある種の「かっこよさ」みたいな。かんじがしてきますね。

 でもそれってちょっと違うんだなーって。中2ぐらいのとき、星野源さんを好きになって、思い始めたのです。

 現実を、事実を並べて所謂「論破」することは、ときに必要なことですね。だって間違った認識を並べておかしな結果を導き出してる人には、「まずこことココとここが違うから、その結果は間違ってますよ」と言ってあげなきゃ。

 だけど、実現が難しそうなことを、事実を並べ立てて否定することは、必ずしも必要ではないとおもいます。

 勿論学校とかで、予算いくらで自主研修しようって言って、「ディズニーのミラコスタ泊まろう!」とか、それはむりですよ。実現不可。否定する必要あります。
 そういうんじゃなくて、こう、
 たとえば、理想論を言った人に向かって、「そんなの自分一人の力じゃどうにもならないから、やっても無駄」とかって。

 言うひと、よくいません?

 その通りですよネ。

 だけどどいつもこいつもそう思ってやらないから、何も変わっていかないんだっていうのも、これまた事実なのですよネ。
 他人任せにしておいて、やってる人をみつけたら「無駄だ」って、自分勝手にも程があるわけで。

 わたし、現実が見えてる人がかっこいいんじゃなくて、だけど理想論並べてるだけの人がかっこいいってのでもなくて、

 現実が見えてるのに、このクソみたいな現実を身に染みて思い知ってるのに、理想や希望を捨てずに強く持って、曲がらずに生きてる人こそかっこいいんだなーって、

 思ったんです。

 ウン。

 だから、いっこまえの記事でキレてたのは、そういうわけもあります。あのひとは、本当に、自分を公共物にされてほんっっっとに色々様々なサイテーな目にあって、この世の中本当クソだ!!!って、しってるはずなんですよ。

 でも、そんなとこばっかり見てないで、素敵な人たちを視界に入れて、感謝の気持ちをいつもわすれないで、前向きに歩こうって。

 かんたんなことじゃないけど、将来はわたしもそんな人に、なりたいって思っとるんです。

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