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あなたの人生は平均より上か下か?

先日、以前勤めていた仕事でお世話になった、O上さんの事務所に遊びに行ってきた。

O上さんは、当時、グラフィックの会社に勤めていて、うちの会社では、主にパースをO上さんにお願いしていた。O上さんは、グラフィックの技術に長けていて、こちらが無理難題を申し上げているにもかかわらず、いつも笑顔で、「いいですよ!」と快諾してくれた上に、しかも、厳しい納期にもかかわらず、毎回、こちらの期待を上回る成果物を持ってきてくれた。当時の仕事ではプレゼンが非常に重要で、その中でもパースの出来は、お客様の心を鷲掴みにできるかどうかを左右する重要なものだったのだ。出来の良いパースを持ってきてくれる→仕事が決まる→O上さんにパースを依頼する→更に仕事が決まる、といった負のスパイラル、いや、会社にとっては正のスパイラルで、芋づる式に仕事は増えていった。

当時は、まだ働き方改革などが叫ばれていない時代である。仕事は超多忙で、毎日、働きアリのように22時過ぎまで働いた。終電で帰るのもしばしばで、終電に間に合えばラッキー、終電逃してタクシーで帰ったり、会社に泊まることも何度かあった。今、考えれば失礼な話だが、僕は平気で22時過ぎでもO上さんに電話していた。しかも、その時間に掛けても出てくれる。お互い遅くまで仕事をこなしていて、同じ窯の飯は食べていないが、ある意味、戦友みたいなものだった。

しかし、こんな働き方をしていて、持つわけがない。ふたり揃ってうつ病になった。しかも、ふたり共、10年以上経っても完治していない。O上さんの主治医さんの話によれば、うつ病は現代病のひとつらしい。昔は、今ほどうつ病の患者はいなかったそうだ。なぜか?まあ、僕らのようにアホみたいに働くから、と言うのもあるだろうが、現代では、平均が明確になっているかららしい。そして、自分が平均より上か下か?を比べてしまうが為に、余計な心配や心労を重ねることになる。

今の世の中は便利になり過ぎて、一億総中流社会だ。分譲マンションに住み、ミニバンに乗り、スマホを操って、家に帰るとルンバが掃除をしてくれている。情報が多すぎて、テレビやネットで「平均的な暮らし」がどういうものか嫌でも分かる。産まれた時は、体重が平均より重いか軽いか、言葉を発するようになるのが平均より早いか遅いか、学校に行けば平均点や平均身長、平均的な趣味など、平均の雨あられである。社会に出れば、学歴が平均より上か下か、年収が平均より上か下か、出世するのが平均より早いか遅いかなど、平均、怒りのアフガンである。

僕らは、自分が平均より下だと知ることで、自分は劣っていると感じるそうだ。平均、平均、平均。これだけ平均を提示されれば、そりゃ比べてしまいますって。昔は今ほど恵まれていなかったから、勿論、今ほど平均のデータがなかったということもあるけど、とにかく生きることに精一杯だったのだ。まあ、勿論、昔も貧富の差はあったけれども、ようは、比べてる余裕がない。インドの貧しい村に住んでいる子ども達を見ると、目をキラキラさせているらしい。彼らは、貧しいことが普通になっている。安全な水がないことも普通、十分な食料がないことも普通、学校に行けないことも普通。ところが、今の日本は、どうだろう。ニートでも引きこもりでも、それなりの生活はできる。でも、その中途半端に「平均的」な生活ができてしまうが故に、隣の芝を見ては心が荒んでいく。特に家族がいると、家族には「平均」以上の暮らしをさせたいと思う。これは、子供たちに、自分は「平均」以上であると思わせたいという感情に他ならない。

確かに、数値的なものは平均で比較はできる。じゃあ、あなたは平均と比べて幸せだろうか?平均と比べていい人生だろうか?幸せかどうかは、平均がない。年収や学歴など、平均より上であれば、そのほうがよいと思うかもしれない。しかし、それが幸せかどうかは、本人次第である。平均と比較して落ち込むくらいなら、そんなこと気にせず楽しく毎日を過ごしたほうがよい。

僕は、このnoteの題名に、「あなたの人生は平均より上か下か?」と書いたが、そもそも人生に平均などないのである。「人生に平均なんか、ないやんか!」そう思えたあなたは、間違いなく平均より上である。

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