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思い出補正が織りなす幻想と、残酷な現実を受け入れる時

 今日の糧に困窮し、明日の食べ物に憂う程の環境にいないからこんな風に思うんだろうなと。ふと思ってしまったことがあった。視神経を刺激した先にある脳が認識した現実を同じくその脳内へ記憶として蓄積するプロセスをいちいち語るまでも無いが、一般的に言われているデジタル保存とは違い人間の場合は曲解や補正が入ってしまうのは周知の事実である。今日はそんな話をしようと思う。

 リアルに私のことを知っている人間からすれば今更だが、私はラーメンが好きだ。ラーメンの為に他府県まで遠征し職人が手掛ける一杯に敬服しながら舌鼓を打つのがとても好きだ。まだまだ訪れたいラーメン屋は山ほどあるし、この身体が朽ち果て重油に焼かれるその日まで全てを網羅することは叶わないだろうけどもありし日の残像に思いを馳せることくらいは許されると思う。
大学に入学し、忌々しい湖の辺りから脱出してしばらく経ったぐらいのことだ。

 そのラーメン屋は国道沿いにあった。海が近く、どことなく潮風を感じられる場所で大きな陸橋の辺に鮮やかな記憶を持って今もなおそこに存在している。
少しだけ濃い味付けの豚骨スープはまろやかでそれに合わせた細麺はよくスープに絡み、今まで食べたことのないような初めてのラーメンは本当に美味しかった。
文字通りの「筆舌に尽くし難い」味わいに感動し、カウンターに置かれた食べ放題のキムチもあっさりと甘めの味付けでラーメンと合わせてもスープを邪魔しない、それでいて口内を爽やかにしてくれる体験は10代の脳内に強烈な印象を刻むには十分過ぎたわけだ。

 そこからすっかりラーメンの魅力に取り憑かれ、いろいろなラーメン屋を巡り自称ラーメン評論家のように脳内で痛い持論を展開するまでになっていたがそれを表立って表現するのは何故か憚られた。結果的にその方が良かったのだが、人の好みにいちいちケチをつけてマウントを取る人間1回目のような人種にならない様に日々精進するのである。

-閑話休題

 お陰で、と言うよりは心優しき友人達の助けもあり色々な土地にあるラーメンを食すことができた。本当に美味いものと言うのは、自分の中で完結してたっていいんだなと。その思いとは裏腹に表題の結果を、あまりに残酷な事実と度し難い真実を受け入れなければならなくなってしまったわけだが…

 時間の流れとは余りにも残酷だった。
恐らくは6,7年ぶりに訪れたその場所で食べたラーメンに悪い意味で衝撃を受けたのだから。

「美味しくない…」

受け入れたくなかった。あの時食べたラーメンはこんなんじゃない!もっと美味かったんや!心の中で何度も叫び、絶望した。終始落胆したまま、帰路の途中にあるコーヒー屋でアイスコーヒーを飲みながら思考を巡らせる。何故なのか?味が落ちたのか?シングルコアのCeleronよりゴミなCPUをフル回転させても求めていた解に辿り着くことなく、その日は帰宅してふて寝するに至ったのだ。翌朝の枕は、見事にヒタヒタになっていた…なんてことはないけども。

 しばらくしてこの話を悪友にしたところ、

「そらあれや、お前自身の舌が変わったんやろ。」

目から鱗。晴天の霹靂。
外的要因にフォーカスしたパターン思考では絶対に辿り着けない境地。まさかその要因が自分の中にあろうなんて考えもしなかったし、舌の変化なんて思うこともないが思い当たることはなくも無かった。
味の好みは年月を重ねれば変化し、最初はウィスキーすら飲めないイキった大学生がそのうちシングルモルトに手を出して最終的にはブレンデッドスコッチでええやんもうと言い出すように。そして焼酎が飲めなかった社会人一年生がいつの間にやら冬の立ち飲み屋でいも焼酎のお湯割りを飲むように…
これ以上は脱線しそうなので、別の機会にしようかと思う。お乗り換えはあちらです。

 かくして、原因がクリアになったところで改めて何故あのラーメンがそんなに美味かったのかを再度考えてみたところでこれが表題にも書いた「思い出補正」であることにようやく辿り着く。
大学でできた友達と授業が終わって食べに行ってその後誰かの家で安酒を酌み交わしてこその代物で、誰かとその味を共有すること、その時点では初めての体験こそ喜びとなりあのラーメンを極限まで美味な一杯に脳内が仕立て上げてしまったというわけだ。

 ラーメン自体は今でも店があるので食べられるし、キムチは相変わらず美味い。しかしながらあの新鮮な喜びをもう一度体験するとなると難しいのかもしれない。純粋に誰かと何かを共有する機会が減っていく中で、コンビニのホットスナック買い占めて金麦をがぶ飲みして笑いながら過ごす時間を取り返したいのだ。

 時の流れは残酷だ。思い出を取り返そうと、再現しようとしてもたどり着けないことが多々ある。おばあちゃん家で食べたご飯のおかずや、友達と食べたラーメンの味、食べ放題の焼き鳥屋で死にそうになりながら飲んだ薄い安酒。物理的になくなってしまった場所や、クソッタレウィルスの影響や、その他何某の事情やら。

 受け入れることで人は成長するのか、はたまたそれが大人の階段を昇ることなのか。30何年では答えに辿り着くことはないが、本当に残酷なのはそれら全てを誰かと共有することすらできなくなった時なのかもしれない。


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らーめんたろう、絶対味変わったやろって未だに思うんやけど。
写真はイメージです。

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