「シュトヘル」に美しさを見る

「漫画感想文」というタグに釣られ、ふと「シュトヘル」を人に薦めたいと思ったことを思い出したので、記事に書いてみることにする。募集要項にはそぐわない、過去の作品であるけれども、個人的にこの作品は漫画史に残すべき傑作だと思うので、紹介する。

「シュトヘル」とはどんな作品か(作品概要)

伊藤悠氏によって描かれた所謂青年漫画である(エッチな感じでは無い。)。出版は小学館。

チンギス・ハーンがモンゴルを率いて各地を侵略していた時代の架空の話で、「シュトヘル」とは主に主人公の1人である女戦士のことを指す。彼女はモンゴル軍の攻撃によって滅ぼされた国の人間で、仲間たちの為に復讐を誓い、「悪霊」とあだ名される程の危険な存在になる。

そんな中で、「悪霊」はモンゴル軍に追われる少年と出会う。彼は滅ぼされた国の「文字」を守るため、モンゴル軍から逃れる旅をしていた。音楽に親しみ、「文字」に命を賭ける少年を誰もが「馬鹿らしい」とみていたが、「悪霊」は彼と文字に触れることで、死んでいった仲間達が「記録として世に残ること」に尊さを感じ、「人」として涙を流す。当初は獲物であるモンゴル軍を引き付ける為の餌として少年に付きまとっていた「シュトヘル」だったが、次第に「文字」の素晴らしさを語る少年を守りたいと思うようになっていく。

色々、詳細を省いたが、簡単に言うとそういう話。私は決して世の中の漫画を全て読んだわけではないが、「文字や記録の尊さ、それを残し伝えるということがいかに素晴らしいことであり、それを消滅させてしまおうとすることがどれ程の重い意味を持つのか」を語った漫画は他に知らない。

侵略すること、その恐ろしさ、おぞましさ

モンゴル軍を率いる「大ハーン」は、ある理由から「文字」を滅ぼそうとしている。ひいては、同様の理由から彼は多くの国、多くの人民の生活を蹂躙し、侵略する、非道が罷り通る戦火を全世界に広げている。命を奪われると一言書けば文章では済んでしまうことであっても、描かれるのは無慚に引き裂かれる人体、一コマで落ちる首、踏みつけられる人の営み、欲望に組み敷かれ蹂躙される人間の尊厳である。だから、「シュトヘル」の復讐心には同情するけれど、「悪霊」の成す暴力にはまったく愉快な気持ちを覚えない。

「何故なのか」。そう、「大ハーンは何故こんな戦いをしているのか」である。美しい戦いをしろ、というのではない。戦争というものが見るに堪えない悪しきものであることはよくわかった。それでも、仲間の為、一族の為、家族の為にに戦わなければいけない人たちの姿も目に焼き付けた。だから、「何故なのか」。ここまで苦しい戦いを、何故大ハーンは仕掛けたのか。

その理由は、徐々に明らかになっていく。それこそが戦争の理由。それこそが「文字」を焼き尽くさんとする動機。嗚呼、それこそが我が■■。

ある意味では。この部分こそが、この作品を「読むべし」とする根本かもしれない。

思いを継ぐ生き様の美しさと悲しさ

多くの復讐が描かれる物語でもある。そして、その復讐心は美化も誇張も否定もされない。何故ならば、そこに人の感情が見えるからである。理屈ではないのである。

自分を残し、死んでいった仲間達への弔いの為、手あたり次第敵を殺すことを誓った「悪霊」。彼女の行為はある意味では全くの無駄な行為である。彼女はその結果も結末も見ていない。獣のように、命を刈るだけである。あるキャラクターは言う。「だからこそ、純粋で美しい」。そう、「悪霊」は「復讐」と言う言葉の権化として描かれるのである。

自身の部族が排除される原因を作った弟を追う、兄。彼は決して、他の者と同じように弟を馬鹿にはしなかった。恨みもない。だが、彼は言う。「お前のわがままで、みんなが死んだ」。彼がやろうとしていることは「けじめをつけること」であり、その先に待つ復讐の舞台への登壇である。彼の復讐を止める声もまた弱い。そう、非道を働いたのは相手なのだから。復讐するは我にありということである。

保護者をその親族によって失った少女。彼女の言葉は最も直截的で凄まじい。死んだ「保護者」が復讐を望んでいるのか、という言葉に対し、彼女が放ったのは「(保護者の)遺志など、知ったことではない」というものである。あいつが生きていることが許せない。それだけである。そこに理屈等存在する筈がない。

……復讐というものに、合理的かつ建設的な価値は無い。むしろ、マイナスですらある。その在り様がいくら美しく目に映ろうとも、その先には虚無しか待っていない。彼らが美しいのは、破滅への道行とわかっていて一直線に走っていくからに他ならない。執着が目的の喪失という虚無であると同じように、そもそもの出発点が喪失である。悲しい美しさなのである。

しかし、しかしだ。「復讐したい」という感情そのものを止めることは誰にもできない。無駄であろうと、その感情の前では「無駄」という理屈そのものが意味を成さないのである。彼の怒りを否定するに足る理屈はどこにもない。思うに、それを止める可能性を持つものは同等以上の熱量を持つある情動がたった一つあるだけである。

「愛」だ。

文字の文化、その美しさを見る

「シュトヘル」という作品の半身は「復讐」である。前述したとおり、それは美しいとさえ思えるが、悲しい美しさである。

しかし、本作で描かれる重要なもう半分の要素「文字」を巡る物語は、人の営みの温度をもって、温かな美しい情景を次第に花開かせるようになっていく。

この物語には名もなき兵士達(しかも大半はくたびれている)が登場するのだが、彼らの殆どが「文字を知らない」。主人公達が彼らに文字を教える最初は「彼らの名前」である。それを見た無名の彼らは、必ず、とても喜ぶのである。「これが俺の名前か!」「これはあいつの名前なんだが、どうやって書くんだ?」と、死んでしまい今はいない仲間の名前を書いてくれと頼むものもいる。

文字を見て、喜ぶ。それは確かに極端な演出かもしれない。けれど、「文字と言う形で、自分から離れた物体が自分と同じ意味を持つ」とすればどうだろう。子供が生まれて喜ぶように、大の大人の男が喜ぶのも、そうバカにできたものではないのではないだろうか。今となっては頭の中、記憶の中にしか残っていない死んだ仲間の姿が、文字と言う形で物質化する。自分が明日死ぬかもしれないという世の中で、自分が死んだ後に残るかもしれない自分や仲間の名前を見て、感動するのは本当におかしなことだろうか。私は彼らが感動する様子に、人の命がバトンパスのように受け継がれていくことを「営み」と表現することを連想し、命や人と人の繋がり、人の生の営みの尊さを見た気がして、感動するのである。

そう、それは「復讐」という虚無から生き直すことができた「シュトヘル」が知った、そのきっかけとなった感情、「愛」の物語なのである。

今は無く、滅ぼされてしまった国の言葉でも、それに触れれば在りし日に思いを馳せることが出来る。何も残らなければ忘れ去られるだけであるが、文字があるだけで思い出すことが出来、その瞬間だけは夢想の世界に生きた情景が復活する。「悪霊」が涙するのもわかると思うのだ。

終わりに

是非とも実際に読んで欲しいと思ったので、ネタバレを避けて迂遠な言い方になってしまった。

「シュトヘル」についての評論は、探せばインターネット上でも少なからず見られると思う。「大河ドラマである」という言い方が見られるかもしれないが、読んでいるうちに「なんか大河っぽい」と感じる程度であり、そう構えることはない、とスタート地点の地面を均しておきたい。

「シュトヘル」とは、多くの国を動乱に巻き込む魔力と、人間を感動させる力を持つ「文字」をテーマに、人の感情を描いた作品である。そこには目を覆いたくなるような痛ましい戦争の惨禍があり、それを念頭に置けば、「素晴らしいお話だった」と言うことは憚られるべきかもしれない。しかし、彼らの生き様を通して、少なくとも私は「人が人として精一杯生きることの素晴らしさ」を見た。「文字がつなぐ人の思いの尊さ」を見た。

シュトヘル達が生きた世界と比べ、今は自由に文字を使って思いを伝えあうことが出来る素晴らしい世の中なのだと知った。

是非とも読んで、読み終わったらもう一度2巻に戻り、シュトヘルと共に泣いて欲しい。


「あしたわたしが死んでも、消えないのか……?」
「わたしの仲間の名前は……この文字が、憶えていてくれるのか。……ユルール」
「――それが……それが、文字なのか。」

「賀蘭金。乞牟巴。――屈漢。」
「……憶えてる…… 思い出せる…… 憶えている……」


美しい物語と作者に感謝を。ありがとう。

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