学校教育から芸術文化的科目を無くしたい

ある記事を読んで、書こうと思いました。
そもそも、昔から考えていたことではあります。

書いているうちに、表題のことよりも「義務教育制度こうして欲しい論」になった。

「義務教育」は国語数学(算数)理科社会だけでいい

社会生活を営む上で最低限必要なのはこの4科目だと思うからです。

国語は言葉について習熟させる必要があります。これは義務教育でなければいけません。文学については微妙なところかと思います。それよりは、日本語を正しく取り扱えるようにするのが大事。また、その上で英語の習熟を図るべきかと思います。国語というよりは、「言葉」「言語」の科目と言ってもいいかもしれません。

数学を(算数)としたのは、実用的な内容は習熟を徹底させる必要があると思いますが、応用的な数学の理解(中学校の内容)は必要では無いと思うからです。四則計算(足し算・引き算・掛け算・割り算)の4つを正しく扱えればそれで十分でしょう。何故ならば、四則計算さえ正確に理解できていれば、後の仕事等で必要になる応用数学は、コンピュータ等の力を借りることで充分カバーできるからです。逆に言えば、四則計算の意味が十分理解できていないことが、応用数学の無理解に繋がります。現行では小学校の段階で四則計算の応用を求められていますが、様々なことを教え込もうとしている為か、小学校6年間を費やしても四則計算が理解できていない児童が殆どかと思います。これは、大学生等に四則計算それぞれの意味を問えば、どれだけ日本の国民が理解できているか統計が取れると思います。所謂、「算数嫌い」の理由は小学校段階で四則計算が理解できなかったことに原因が集約できると思います。ですので、義務教育での「数」の科目は四則計算の確実な習得に焦点を置くべきかと思います。

社会と理科は、とても内容が広範な科目です。なので、先に申し上げておきますと、「前提として、一般的な人間教育は家庭で学ぶことが当然の社会とする」という考え方を挙げておきます。所謂、「躾までも学校教育に任せてしまう」という問題です。道徳に「成績」を付け始めてしまった現代の日本の教育の諸問題の原因の一つがここにあります。事実上の保護者の教育放棄です。現実として(特殊なケースでない場合)幼保に通った経験のない子どもであろうと、学校では先生と言葉を交わすことが出来ます。これは、「言語によって交流を行う」という教育を家庭で行った結果です。つまり、家庭では教育が出来るのです。「お外やトイレから戻ったら手を洗う。」これは当たり前のことであり、家庭で教えた上で学校へ送り出すのが当然なのだという社会です。「母子家庭で母親の労働的負担が重く、それが出来ない」というのなら、それを支えるのが社会である筈です。仮に母親が高給取りなのであれば、そのお給金で何か方法を考えるべきです。学校は学問を学ぶ場であり、どのような家庭の事情があったとしても、最低限の人間教育、所謂「躾」を行う場であってはいけません。それを学校がやってしまったら、親が親の義務を果たしていないことになります。憲法にある「保護者は子供を養育する義務がある」「子供に義務教育を受けさせる義務がある」という条文の意味がここにあります。そうでなくても、それは社会的動物である人間として、当たり前のことの筈です。

この考えから、社会や理科では「社会の構成員」としての知識を納めてもらいます。社会では特に現代社会への意識から、「よりよい社会人として」という心構えを押さえようと考えることが出来ますが、大事なのは知識です。「心構え」という道徳については家庭や社会が教えていくだけで良いかと思います。少なくとも、「成績を付ける」ようになってしまった道徳のように教えてはいけません。それは、人間の先輩が「教える」のではなく、「洗脳」になります。それを「良いのか、悪いのか」考える為の土台になる知識を与えるのが学校教育の目的になります。特に社会はその為に必要な「知識」であり、学問です。道徳ではなく、様々な考え方を知らせてあげるという意味で、西洋の哲学を教えたいところです。哲学は社会ではないのではないかという人は、日本人には多いかもしれませんが、そもそも「社会」という考え方は哲学思想に出発点があります。哲学を学ぶことは「社会とは何か」を学ぶことにもなります。義務教育で学ぶべき社会科は「身の回りの社会のこと」「現在に至った歴史の概略」、この2つを経たとき、「社会とは何か」を考える哲学が子ども達を社会人にする後押しになるかと思います。

理科では、社会で学ぶことが出来なかった化学、科学的な知識を納めてもらいます。大事なことは、生活に関係する内容をとにかく大事に押さえるということです。人間が生きていくために必要な水や食料、空気、火。食料の原料となる植物、動物。それらや水や空気を生み出す環境のこと。この辺りを当然の知識として押さえ、その上で火の取り扱いを押さえます。火を内容として扱うことは重要です。生活の必需品でありながら、とても危険なものであるという特徴は、現代では電気にも通じていますが、より原始的なものが火だからです。火は電気よりも身近です。火についての理解がしっかりすれば、電気は同類のエネルギーとして捉えることが出来、危険性についてもスムーズに理解できるのではないかと思うところです。食生活への実際の関与は家庭での教育に任せますが、「火はどんなものなのか」という「知識」は学校教育が担当するべきところです。

芸術文化的な科目は「学校教育」から除くべき

理由は大きく分けて2つです。また、除いてどうするのか、ということは次の項目で述べます。

1つ目は「評価できない(し辛い、してはいけない)」ものであるからということ。
音楽や美術は「好みで良いと思うものを選んでよい」というのが、現代の社会では当然のものです。「みんな違って、みんな良い」という言葉がそれを表しており、この言葉が現代社会に広く受け入れられていることは、誰それの資料やデータを引用するまでもないことでしょう。従って、「義務教育」の場で成績を付けるように教育するのは不適当です。個人の人権の侵害といっても過言では無いと思います。積極的に排除すべきです。

体育(運動)も同様です。確かに、生きるために必要な体力という考え方は理解できます。しかし、それであれば「体育科」という科目ではなく、「準備運動」「基礎体力保持のための日常運動」程度で十分です。競技スポーツ等を教える必要はまずありません。少なくともこれ以上の内容は、「義務教育」ではありません。「家庭科」等のその他の技能的科目も同様です。現代社会に必要な「義務教育」の範疇から外れるものであると思います。

2つ目の理由は「義務教育の時間に、その余裕がない」ということです。本論では、一応、義務教育を9年間と見ています。その上で義務教育で納めるべき内容は「4科目に限るべき」としていますが、それでも時間が十分にとれたとは思えません。(実際にやってみないと分からない、ということは考えない。)上記4科目の大事なことは「習熟」であるからです。全ての学習者を習熟させることが、この9年間の目的です。期間満了を待たず、早期修了者が出ることは予想されますが、それについては次の項目で述べます。

午前「義務教科4つ」+午後「選択教科」論

まあ、時間の割り振りはテキトーなのですが。

前の項目で「芸術文化的な科目」「技能習得系科目」は「義務教育」から排除すべき、と言いましたが、これを選択科目にし、学習者に自由に選ばせて学習させるという方式です。「何かしら選択して学ぶ」という意味では「学習の義務」がありますが、専門科目ごとに講師が入る専門教育なので、「学校の先生が学校で教える」という感じではなくなります。所謂スポーツクラブ的な学習を制度に取り込む形です。

必修の4科目の内容から外れた応用内容もここに入れます。義務教科の内容をもっと深く学びたいという子は、この選択科目でさらに学べる仕組みです。サッカーを学びたい子はサッカーだけを学んでいて構いません。スポーツ系では保健体育も納めてもらうことで、選手だけでなく、スポーツ関連の職業への道が見えてくる仕組みです。勿論、歴史をもっと学びたい子等は学芸員の勉強なども教えてもらいます。音楽や美術もそうですね。情報教育等という名前入ってきているコンピュータの勉強を学ぶ専門科目もあるでしょう。とにかく、学習者のニーズに応じた科目が用意されます。

目的は上述の通り、個に応じた知識技能の伸長と将来の進路選択への道をつけることです。その為、評価はそれぞれの科目の内容に応じて変化することが予想されます。学習者の主体性が前提になるので、評価は保護者よりも学習者に向けたもの、適性の向き不向き等がメインになるでしょう。

現在、義務教育に芸術文化的な科目が入れられている目的の一つは「振興」があると思います。これは専門科目で十分以上にカバーすることが出来ます。

義務教育の「内容」を絞り、「評価」の意味を学習者へ返す

芸術文化的な科目は評価がし辛いと書きました。これは、言い換えてみると「評価とは何か」ということにも繋がります。

学習者目線で言えば、成績評価とは、「自分が学校につけられた点数」以外の何物でもありません。どれだけ頑張ったところで、どれだけ好きだったところで、歌がへたくそならば、「あなたは歌の点数が低いです」と返されるのが現状です。社会に出た人たちは言います。「だからどうした」。たとえそれが意地っ張り故の発言だったとしても、「その程度の価値」なのです。

義務教育の必修学習内容を絞ることで、評価を学習者に返します。学習者に「キミはここが出来ています」「ここが出来ていません」を返します。どれだけ頑張ったところで~「ここが出来ていません」と返されるのは一緒ですが、学習内容を絞ったことで、これが「好き嫌いも、頑張りも関係なく、テストの点数以外の何物でもない」という評価に落ち着きます。本論では義務教育の期間を、現状とは変えずに、とりあえず9年と見て論じています。(とりあえずのことで特に意味はない。)つまり、9年をかけて「弱点」とじっくり向き合い、克服するのです。だから、四則計算だけに数学(算数)の9年をかけるつもりでいるのです。

早期修了者は専門科目の時間を増やしたり、必修4科目の発展内容に足を踏み入れさせてもいいでしょう。よくこの辺りで「階級差別意識が~」と思いつくことかと思います。その手のイジメ問題で大事なのは、あくまで「お前は計算がよくわかるだけだろ。立派な人間だと言われているわけでは無い」という考え方です。このことも、先に書いた「評価」の扱い方に還ります。評価が「点数としての意味しか無く、人間評価とは分離したもの」に落ち着けば、習熟度が違うこと等、気にする方がおかしくなります。「なんで、計算が出来るだけで偉ぶってるんだよ?」という感じです。だって、みんな専門科目を学んでいるのだもの。フツーのヤツには、そのすべてを修めて紛れもない優等生王者として君臨することは不可能です。みんなそれぞれ向き不向きがあって、それぞれに得意なものがあるということになります。仮に、必修科目も専門科目も総てにおいて目が無いのだとすれば、それはそのどちらにも適性が無いだけであり、優れた適性が全く未知のものだということになります。これは学校に適性が合わなかったという天才あるあるです。このような仕組みを導入した社会であれば、「劣ったもの」だなどと思うよりも先に「彼に合うものを我々が用意できていないィ!?」と焦るか驚くと思います。それは彼や彼と同じタイプの人類が、自分たちの想像を超えたニュータイプだということになるからです。そうした「評価不足の可能性」を考慮せず、彼を劣っているとして扱ってしまう者がいるとすれば、それは自分の無知を知らない人であり、ちょっと大人としてどうなのかなと思うところです。ちなみに私はソクラテスもいいけど、孔子が好き。

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