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ビジネス歳時記 武士のおもてなし 第54話「番傘」

武士の懐を潤した、恵みの傘の花


6月の水無月に入ると、そろそろ梅雨のシーズン。街中に、さまざまな彩りの傘が咲く季節になります。童謡「あめふり」で「あめあめ ふれふれ かあさんが じゃのめで おむかえ うれしいな~」の「じゃのめ」とは、いまでは珍しくなった、竹に和紙を張った番傘※の一種の蛇の目傘のこと。雨具といえば、藁や菅を素材にした蓑や笠を使っていた下級武士や庶民には、なかなか手にすることができなかった高級品でした。

今回は、この傘のはじまりが身分の高い人たちのもてなしに使われたことや、リサイクル傘として武士たちの恰好の内職となったことなどについて綴ってみたいと思います。
 
日本に初めて傘が登場するのは、6世紀の中ごろの歴史書『日本書紀』の中。第29代欽明(きんめい)天皇が百済(くだら)の王様から贈られた、仏像の頭上などに差しかける天蓋(てんがい)のようなもので、陽射しや風をよけるために従者が貴人に背後から差しかける、長い柄がついた日傘のようなスタイルでした。

奈良・平安時代からは、こうした布地を張った長柄の傘が広まりました。絵巻物を見ると、僧侶の一遍上人(いっぺんしょうにん)※が弟子に傘を差しかけられて移動する姿が描かれています。

鎌倉・室町時代には紙を張った朱塗りの長柄の傘が登場し、貴族や武士、僧侶などの貴人や要人を敬い、晴雨から護りもてなす傘として使用されました。このころには放射状に傘骨を集めて動かす技術で開閉する傘となり、階級によって収納する傘袋や口元を縛る紐の色まで決まっていました。傘はこうして特権階級にしか使えない、いわば権力の象徴だったわけです。

この権力者といえば豊臣秀吉ですが、文禄3年(1594)に堺の商人の納屋助左衛門(なやすけざえもん)※が呂宋(ルソン=現在のフィリピン)から持ち帰った紙張りの雨傘1000本の献上を受け、金貨の褒美を与えたことが『太閤記』に記されています。

この傘は、自分で差せる柄が短くて開閉のできる扱いやすいもので、諸藩の大名に配られて広まります。その後は、傘の材料の竹や和紙などが入手しやすい京都や岐阜などを中心に生産地も確立され、寛永12年(1635)の「武家諸法度」から始まった参勤交代の制度で街道が整備されて物流も進み、全国各地に実用的な傘の存在が知られるようになりました。

元文2年(1737)のある日、長野県下伊那郡浪合(なみあい)村の関所を通行しようとした旅人が激しい腹痛で動けなくなってしまいました。それを見かねた関守の役人は、上役の許可を得て親切に介抱をします。数日すると、旅人は元気を取り戻しました。

旅人は京都から来た傘職人で、お礼に関守たちに傘の作り方を伝授することになりました。役人たちはすぐに習得し、「岐阜あたりで作られる傘より質がいい」と傘職人に褒められるほどの腕前となりました。

そして、関所での任務を終えた関守たちが、地元に戻って武士の同僚たちにその技術を伝授したのが、ご当地の郷土傘「阿島傘(あじまがざ)」※となりました。宝暦13年(1763)には松本へ馬で運んだ傘が数千本にもなったという記録が残っています。
 
物流が発達する契機となったともいわれる参勤交代ですが、それは同時に武士たちに多大な出費を強いることになります。移動日数や人員にもよりますが、一説には一日の移動にかかる旅費は現在に置き替えると数百万円単位だったともいわれています。下級武士たちは藩の財政難から副職を持つことを奨励され、江戸時代初期には現在の価格にすれば1本1万円を超えていたという番傘作りは、重要な稼ぎ仕事だったようです。
 
その傘は、破れると張り直してリサイクルするのが当たり前で、この作業も下級武士の内職として欠かせないものでした。それだけ需要があったということですが、幕府は過熱する傘の大流行に、寛延3年(1750)には贅沢品として使用禁止令を出すほどでした。
 
その規制にもかかわらず「水無月の空色傘や東山」(小林一茶)と、色違いや女性仕様の傘など、市中で傘の人気が続いた江戸時代後期。下級武士や浪人にとっては、雨降りもしばし恵みの雨だったかもしれません。

【監修】
企画・構成 和文化ラボ
東京のグラフィックデザインオフィス 株式会社オーバル


※番傘
大坂の大黒屋が作りはじめた大衆的な傘。太い竹の骨に和紙を張り、その上に油を引いた実用的な雨傘だが、晴雨兼用としても使われた。名前の由来は商家などで番号をつけて客に貸したところからという。蛇の目傘は、傘の中央と端に色紙を張り、中間の部分を白い紙にした対比が蛇の目模様のように見えることから名付けられた。

※一遍上人[1239 - 1289]
鎌倉時代の僧。時宗の開祖。伊予(愛媛県)の出身。念仏を唱えることが極楽浄土へ導く救済の手段となるとして、寺も持たずに生涯をかけて全国を巡り、民衆に念仏を勧めた。

※納屋助左衛門
生没年未詳。本名は菜屋助左衛門など。安土桃山~江戸前期の貿易商。東南アジアとの貿易で財をなしたことから呂宋助左衛門ともよばれた。富裕な堺商人の集まり、納屋衆の一員であったことから納屋の名がついた。

※阿島傘
長野県下伊那郡喬木村に伝わる「阿島傘」を作る傘屋は、現在は1軒のみ。傘の歴史や製作過程が見られる阿島傘伝承館・資料館がある。
https://www.vill.takagi.lg.jp/map/map-info/2023031000328/


参考資料
『阿島傘』(阿島傘編集委員会 喬木村教育委員会)
『和傘、パラソル、アンブレラ』(INAX出版)
『大江戸リサイクル事情』(石川英輔著 講談社文庫)
『近世風俗志』(喜田川守貞著 更生閣書店)
『日本風俗史事典』(弘文堂)
『本当に江戸の浪人は傘張りの内職をしていたのか?』(山田順子著 実業之日本社)


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