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関西空港 幻の計画を調べる③

もう一つの初期案 - 神戸沖

 関空神戸沖案については他の案に比べると有名?な話のようで、ネット上でもいくつか記事を見ることができます。兵庫県、大阪北部の住民からすれば現在の泉州沖関空の立地は遠く、神戸に関空ができていればなあ・・と考える方も多いと思います。

 とはいえ、空港背後圏人口のデータを見ると泉州の関西空港も、おそらく当時の神戸沖案と同立地の神戸空港に対し健闘しています。(当然三宮での乗り換えが必須なポートライナーに輸送に頼る地方空港神戸空港と、国際空港として私鉄+JRが直接の乗り入れる現在の関西空港とのインフラ投資の規模の差は考慮すべきですが。)

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出典 - 関西国際空港高速アクセスに関する検討調査https://www.mlit.go.jp/common/001008788.pdf

 前置きはこのあたりにしておいて、今回は淡路島案と同時期に提案をされていた神戸沖案について調べたいと思います。

 この計画の発端は神戸商工会議所の会議において、「公害なき関西新空港を推進する会」が発足したところにあります。その後神戸市から神戸沖新空港の試案が昭和46年に発表されます。この計画では長さ4000メートルの滑走路4本と横風用の3200メートルの滑走路を設置、広さ2100ヘクタールの超巨大空港の予定でした。もし完成していればポートアイランドの2.5倍、成田空港や泉州沖の関西空港(2期分含め)の約2倍以上の巨大空港が誕生していたことになります。

 空港の位置について手持ちの資料を確認した範囲ではポートアイランド沖6kmとしか書かれておらず詳細な推測はできませんが、ほかの方がすでに推測をされているようですので、リンクを張らせていただきます。

幻の神戸沖国際空港計画案https://firemountain.hatenablog.jp/entry/2019/10/20/000000

 リンク先の案では和田岬からのアクセス鉄道建設についても触れられています。既設の和田岬線和田岬駅から沈埋式のトンネルで空港まで渡る計画で、現実には朝・夕のみ稼働の特異なローカル線と呼ばれる和田岬線が、空港アクセス鉄道として活用をされていた可能性もあります。この神戸沖案はその後幾度となく計画の変更がされていたようで、横風用含めて滑走路5本という手持ち資料の案はこのリンク先の案は異なるものです。また、アクセスについても先述の塩川氏の著書では、和田岬ではなくポートアイランドからのトンネルでのアクセスと記載されています。

 この神戸沖案の計画は当初から反対が多く、神戸市長としてポートアイランド計画を発案した原口忠次郎氏も、新たに空港を埋め立てることによる海上輸送への障害を懸念し、明確に推進の立場をとることはありませんでした。また、いくら海上空港とは言え、当時の旅客機の騒音は現代のそれと比べてはるかに大きく、また将来は超音速旅客機の離発着が当然になると考えてられていた時代ですから、芦屋や須磨など周辺の高級住宅地への騒音も無視できるものではありません。昭和48年に神戸市議会は新空港建設反対の決議をまとめています。

 また同年に行われた市長選挙では現職の宮崎辰雄氏が空港建設反対を掲げて当選をしています。これが決定打となり国は泉州沖案に傾き始めることとなります。後年、佐藤章氏著の関西国際空港という本(1994年出版)で、宮崎氏がこの反対姿勢を、自分の意に反した一生の不覚と述べたことが書かれています。この選挙前のアンケートでは神戸市民の約70%が空港に反対という中で、空港建設推進の立場をとれば選挙での苦戦は必至であり、また政党が氏に空港反対の踏み絵を迫ったことで、選挙戦で空港反対を打ち上げざる得ない状況に追い込まれたのです。宮崎氏はこの後オール与党市政を築き上げ、5期20年にわたり市長を務めあげます。一方で積極的な開発姿勢から株式会社神戸市とも呼ばれた、当時の自治体運営のモデルケースを作り上げた功績についても触れておかなければなりません。


 すでにポートアイランドの基本構想は固まっていた時期ではありますが、もしこの計画が実現されていれば、ポートアイランドの立ち位置は大きく変わっていたことは間違えありません。島全体が幻のりんくうタウン計画のような開発事業にあふれていたことを考えると、胸が高鳴る一方で、その後の景気低迷でどのようになっていたか想像するに恐ろしいものがあります。

 この神戸沖案は泉州沖案の最大のライバルとなり、実際に泉州沖で着工される直前までしばしば歴史に登場することとなりますが、それはまたその時に。次回は播磨灘沖案、そして事実上の立地決定となった運輸省による泉州沖答申に至るまでを見ていきたいと思います。


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 塩川正十郎氏の著書「時代を拓く!関西国際空港」の巻末に当時の関西経済連合会名誉会長である芦原義重氏との対談が掲載されています。この中で当時の神戸案の反対動機について記載がありましたので、追記します。

塩川: あの頃、神戸市長は神戸沖案に明確に反対されていましたね。
芦原: 当時原口さんが神戸市長で、原口さんの反対は明確だった。神戸港は世界一の良港で、港の低空を飛行機が飛ぶようでは船長が神戸に入港を嫌がるようになる。それでは困ると。神戸港の出入り口は5000メートル開けてもらわんと困る、とおっしゃる。
 そのころにはポートアイランドの計画もあったから、そこからさらに5000メートル先というんです。原口さんがもう一つ言っていたことは、明石に橋を作るが、あれは船を通さんといかんから橋げたは高くなる、もし空港をつくるのに橋が邪魔だとなれば困るからますます反対します、ということですよ。(一部要約しています。)
--時代を拓く!関西国際空港 昭和62年 塩川正十郎著

 神戸港がコンテナ取扱数で世界一になったころですから、やはり空港建設による海上交通への影響に懸念があったようです。また明石海峡大橋架橋への影響も心配されています。神戸沖建設予定地から現在の明石海峡大橋までは約20km弱ですから、確かに影響が出ていた可能性はあります。

芦原:それから阪神間の婦人団体の会長さんが私のところにおいでになって、「神戸沖に空港ができると御影、芦屋、住吉などが伊丹と同じように騒音被害をうけるので絶対反対です」とおっしゃた。
塩川: 私はあの当時、神戸沖に猛烈に反対したんです。理由簡単で、神戸は海港で!大阪は空港で!ということなんですが・・(一部要約しています。)
--時代を拓く!関西国際空港 昭和62年 塩川正十郎著

 塩川正十郎氏も神戸案には反対と・・笑
 住民・政治が概ね反対、神戸経済界のみ賛成の色が強かったようです。

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