関西空港 幻の計画を調べる⑦

 昭和49年、紆余曲折を経て関西空港の立地は泉州沖が妥当との答申が出されました。しかし実際に着工されたのは昭和62年のこと。まだ空港建設には様々な困難が残っていました。

空港反対の声 
 そもそも関西に新空港を建設するべきとの意見は、伊丹空港の公害問題に端を発した部分もあり、当時はそれだけ空港が迷惑施設と捉えられていたのわけです。その空港が規模を大きくして自分の住居の近くに建設されるとなれば、それに反対するのは当然と言えます。

 空港建設が具体化するにつれて大阪府下の各市町村で相次いで空港建設反対決議が行われ、とりわけ有力候補地となっていた泉州沖を抱える大阪府南部では大きな反対の声があげられます。昭和45年には大阪府議会が泉南沖反対決議を採択しています。
 その最中の昭和46年、大阪府知事選挙では公害規制を看板政策として掲げた黒田了一氏が当選、革新府政がスタートします。しかしながら関西新空港には伊丹空港の代替としての機能もあり、伊丹の問題の除去には新空港が必要であったことも事実です。その結果、黒田府知事は新空港の建設自体に明確に反対を示すことはありませんでした。

 昭和49年に泉州沖を建設地とする答申が出されると泉州沖での空港建設が半ば決定となります。この時期にはその反対の声はより一層強いものとなり、周辺市町村では様々な形での泉州沖空港建設反対の決議・請願が行われました。

 昭和51年には、”調査”を前提とした観測塔の建設を大阪府の同意を得て開始、運輸省は各自治体へ建設賛同を求め繰り返しの説明を行うこととなります。この当時の構想では昭和56年の着工を目指していたわけですが、徐々にこの日程は厳しいものとなっていきます。


メガフロート方式?
 かつては活況を呈していた造船業界は、昭和50年ごろを境に世界的な景気後退の影響から深刻な不況期へと突入します。その中において造船の技術を活用できる空港のメガフロート方式(浮体式)での建設はまさに地獄に仏ともいえる妙案でした。当時の造船業は現在に比べると産業に占める割合が高く、発言力もあったのでしょう。昭和52年に造船の業界団体から浮体方式での空港建設の提案があると、本格的な検討が行われます。

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出典 https://www.mlit.go.jp/common/001215818.pdf

 この浮体方式であれば、埋め立てでは逃れられない地盤沈下や環境へのインパクトを抑えることができ、また昭和54年には運輸省から技術的に可能との調査結果が出されます。
 結局のところ航空審議会で両工法を比較検討し、昭和54年には従来の埋め立て方式での建設を行うことが妥当とする結論はでたものの、建設方法という思わぬ議論に時間を費やしたことで、当初の着工目標である昭和56年は厳しいものとなりました。(当時の審議会では埋立・浮体それぞれの優劣を示し、総合的に埋立での建設が妥当であると評価しています。)

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 昭和56年になりようやく滑走路・飛行経路・空港施設の計画や建設方法が提示された関西空港第二次答申が出されます。横風用滑走路を含んだ三本滑走路の関空の計画図はここに端を発します。

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出展: http://www.fly-kix.jp/project/index.html


神戸沖案の再燃
 泉州沖での関空建設に向けた動きが遅れをとる中、昭和55年に兵庫県選出の国会議員石井一氏が石井私案として神戸沖案を再燃させます。この石井私案は、ポートアイランド沖4kmを埋め立て、沈埋式トンネルでポートアイランドと結ぶもの。後の神戸空港とは異なり、泉州沖の代わりとなる国際空港を前提とした計画でした。財政状況からまずは一本の滑走路を建設、横風用滑走路は不要でその後二本目の滑走路を建設して完成とするものでした。
 建設費が泉州沖に比べて大幅に安くなることが最大の売りでした。このころには航空需要もかつてほどの伸びはなくなっており、昭和40年代に作成されたかつての神戸沖案にくらべると幾分コンパクトになっています。

(↓だいたいこのような位置取りだったようです。)

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 しかしこの案は泉州沖推進派からすると妨害工作に近いものがあり、たとえ私案であっても到底容認できるものではありませんでした。しかし神戸の財界は「海から空へー神戸と新国際空港」をスローガンに、地元選出の政治家と結びつきを強めながら神戸沖案を推進します。

 「嵐の中の関西新空港―運輸省も困ったヤブから棒の神戸沖案」なる本が、おそらく泉州推進側の団体と思しき会から出版されています。泉州と神戸の攻防は空港建設における関西の足並みの乱れを象徴していました。しかし運輸省は泉州沖を本命とする考えは変えず、その間も地元への説明や説得を繰り返えしていました。


自治体の相次ぐ反対撤回、そして着工へ
 航空機の騒音低減における技術革新は目覚ましいものがあり、昭和50年代も中盤に入ると伊丹で騒音訴訟が開始された時期のジェット機に比べ格段にその騒音は低減されていました。

 また泉州地域は長らく繊維産業の中心地として発展してきましたが、外国からの安価な輸入品によって地場産業は壊滅的な打撃を受け、経済の衰退の危機に立たされていました。当時の計画で事業規模約2.5兆円にも及ぶ空前の公共事業は泉州経済復活への起爆剤になることは明らかでした。
 そして空港開港後には航空旅客・貨物が地域に流入し、それに伴い製造業やサービス業の集積が進むとされ、泉州地域は臨空都市としての発展をする未来図も描かれました。

↓りんくうタウンの計画図(関西空港調査会編 関西新空港ハンドブックより)

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 運輸省の粘り強い説明・説得により昭和55年には泉南市が泉州沖の空港建設反対決議を取り下げました。その後も反対決議を取り上げる動きは相次ぎ、昭和57年には泉州地域の反対決議はすべて凍結、もしくは撤回をされることとなりました。
 こうしてこの時期には概ね、政治の世界でも泉州沖への空港建設を容認・もしくは反対せずとの立場が趨勢となり、大阪府・和歌山県・兵庫県も泉州沖への空港建設を許可することとなります。昭和57年には泉州沖建設予定地におけるボーリング調査、空港連絡橋の建設が開始されます。

 昭和59年には建設に向けた集会場所に過激派が放火するなどの局所的な騒動はあったものの、この年に関西国際空港株式会社発足、昭和60年には国で整備大綱が決定されます。

 そして昭和62年ついに関空は着工、平成元年に埋立工事が完了します。その後も空港設備の工事は続けられ、平成6年9月4日関西空港はついに完成の時を迎えます。


最後に・・
 調べてみると計画当初の淡路島案から錦海湾案、神戸沖案と様々な計画があったことがわかります。どれも一長一短がありますが、私個人としては現在の泉州案はバランスの取れた良い選択であったと考えています。
 一般に遠いとされる泉州沖という立地は今後変えることはできません。ただ空港自体の利便性の向上やなにわ筋線をはじめとした交通インフラへの投資で今後関空をさらに飛躍させることは十分に可能です。
 一時は旅客数低迷ばかりがクローズアップされていた関西空港も、近年の外国人観光客の急増でその機能をフルに活用しています。現在はコロナウイルスの影響から利用は急減していますが、またいつか復活し、より便利な関西空港になることを祈りつつ、この記事の終わりとします。

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