中上健次「の」柄谷行人

「の」である。
「と」ではない。

柄谷行人「の」ではない。
中上健次「の」である。


中上健次と柄谷行人の朋輩としての関係は愛読者であれば周知のことです。しかし「朋輩」を日常的に使う人は少数派もいいところで、私も誰かに向かって発話したことはありません。

中上健次の小説世界(以後「中上空間」と勝手に称します)では決定的に重要な人間関係を表わす言葉です。中上健次は体調が悪化するに連れて柄谷行人を朋輩と称するようになりますが柄谷行人はなかなか応えてくれませんでした。
それでも最後の最後に病床の中上健次を訪れた柄谷行人が中上健次の「朋輩」であることを受け入れて「朋輩」と応えます。
中上健次1992年8月12日腎臓がんで死去。享年46歳。


極私的印象批評の立場からいうと『地の果て至上の時』が中上健次の最高傑作だと思っています。「中上空間」の中心に位置していると思うのですが、柄谷行人は『枯木灘』を「近代日本文学」の到達点としています。私は傑作であることに異論はないのですがそれでも一作挙げるなら『地の果て至上の時』を推すことになります。
「中上空間」には傑作といえる他の作家のレベルからは突出した作品が複数あります。この複数あることは驚愕すべきことです。作家が文学史に残るレベルの作品を一作でも残せれば当然作家名も歴史に刻まれます。芥川賞を受賞した作家を何名言えるのかということです。
中上健次の『岬』『枯木灘』『地の果て至上の時』は作者をモデルとした秋幸が主人公で「秋幸三部作」と呼ばれます。
特に『枯木灘』は文学史に名を残す名作です。
「秋幸三部作」の後には『千年の愉楽』と『奇蹟』の圧倒的な存在感が際立ちます。秋幸の系譜とは異なる一統を書いています。
『千年の愉楽』を「中上空間」の代表作に挙げる批評家に江藤淳と吉本隆明がいます。
私は『奇蹟』が『地の果て至上の時』と僅差で二番目に推しております。で、ツートップではないかと思いますが、どんなものでしょうか。


中上健次は大江健三郎と並び称されるくらいの読みにくい文章を書くことで有名です。
愛読者以外の人にとっては「悪文」の烙印を押したくなるのが当然だと思います。しかし私は単なる「悪文」だとは思いませんし、大江健三郎も中上健次とは違う意味ではありますが単なる「悪文」といってスルーできるとも思っていません。
では「悪文」の正体を説明してくれと詰められることになるでしょう。文章が下手なだけではないのかといわれるでしょう。
「読みやすい」と「分かりやすい」が現在文章に求られている大きな要素であることは知っています。


柄谷行人の交換様式に中上健次の作品を当てはめたい欲求を抑えきれないので駄目もとでやってみようかと無茶なことを検討中です。