【現代詩】世界が換喩になってきた

「無知が何かを生み出したことはない」机上の牛馬は席を蹴った。
万人の琴線に触れる情熱は雷雲を七色の稲妻に遷移させる。


「二の句が継げない」「呆れて物が言えない」そんなことばが先ず浮かんだ。間が空くと「論破」って国会は討論の場ではないのに。
大臣はとても高い社会的立場である。それだけ重要な地位に凡人がいては困るのだ。ツッコまれる度に素に戻るようではナイーブに過ぎないか。「ご飯論法」復活かと疑いたくもなる。

野党の質問者もお勉強が得意なだけの貧弱な冷凍唐揚げを解凍するだけで本当は何をしたかったのか分からなくなってしまったようにみえる。
放送法を俎上に乗せたかったのではないのか。

ワタシのような「下々人」は行政文書を保存管理する意義を見失ってしまうだけだ。情報公開とのセットで考えないとだめでしょう。黒塗りどころかそもそも正確性が担保されていないなら、黒塗り無しで公開されたとしても「必ずしも正確とは言えない……」といなされるのでしょうか。
前轍を踏むことのないようにガイドラインや規則をつくったりしたのではないのでしょうか。まあ今回それ以前の文書だったらしいですけど。

どうやら二人以上で共有したら行政文書になるらしいので膨大な量になるのは分かります。

本音と建前とはいうものの本音は隠しているから効果があるので、「本音と建前」とか「ぶちゃけ」とか枕詞を使った時点で勝負ありだったのですが現代は二項対立も無意味になってきて森鴎外の「かのように」も「普請中」も古びてみえます。というか使えなくなった。芥川龍之介の『藪の中』は「関係の相対性」の問題ではなくなった。