『堕落論』と『文学のふるさと』に就いて

『堕落論』と『文学のふるさと』は安吾自らが創作の原点を開陳した小論であります。

主張の骨格は相似形であって、なんなら『堕落論』は『文学のふるさと』の実作編として読み解くことも可能であります。

しかしこの二編は似ていながら根元に於いて決定的に異なる事を主張しています。
読者は堕落することと、ふるさとに突き放される感受性との懸隔を明確に意識しないと『堕落論』を読み誤ることになります。

「ふるさと」は文学に欠くことのできない前提であり文学者も読者も突き放される対象であります。
しかし、『堕落論』に於いて安吾は堕ちること、そしてそこから人間性の回復を呼びかけます。

ここには能動性と受動性の転倒があります。
『文学のふるさと』は安吾は自己確認をしていますが、『堕落論』に於いては安吾は他者に呼びかけをしています。
語り手としての安吾の立ち位置は揺れを含んでいます。書きながら安吾自身も変化しているのです。

この揺らぎは安吾の根幹であり一歩間違うと書き手としての暇疵にもなってしまいます。
「ふるさと」からの感受性を維持しながら書くことの困難が安吾には付いて回りました。

さて「ふるさと」を桎梏と見做すか、安吾を安吾足らしめる条件と見做すか。
私は安吾を優れた作家と評価する重大な資質の源であると思っています。