【哲学】解決困難君

人生の問題は起きては解決を繰り返す。凡庸でも波瀾万丈でも思い通りに多幸感のみの人生ってあるのか。

他者の胸の内は分からないけど、悩みや苦悩を感じさせない、軽さだけで生きているかのような人が社会では高(好)評価を得ている気がする。

「思考なき決断」とそれを下支えする「簡単明瞭な情報」に侵食される領土は、コミュニケーションだけではなく、個人の内面の質に迄及んでいる。

マルクスのいう下部構造(生産様式か交換様式)と
上部構造のように、SNSのプラットフォームによって個人の思考(嗜好)が形成されてしまう。


「無(前)意識は言語のように構造化している」

内面は深さがあるように感得されるが物質でないし可視化できるモノでもない。内面は言語化されてから事後的にあるかのように感じるだけなのだ。

内面の発生は時間のズレが生み出すモノで、レスポンスがゼロに近づく程「内面=意味」の発生の機序を喪失してしまう。

デリダの「差延」の問題はこの辺りにある。
会話から文章化されること。

デリダは会話(音声中心主義)を批判する。
これは「権威者」が「本」を独占しているからで、解釈権が「権威者」に収斂されていく。

「文章」にすると意味が一義的に決まらない。音声の物質化された果ての死骸と見做される。
識字率が高くなり文章が広域に頒布されればデリダの「脱構築」の問題系になる。