恐るべき換喩的な世界に居て

理論的な思考と感情的な主張はどちらが正しいのか。それとも正しいとか誤っているかで判断することではないのか。
理論と感情は確然と別けるべきではないし、別けられるものでもないのか。どうなのだろう。


SNSの動画配信を視聴していると、簡単明瞭で滑舌もテンポも心地よい。視聴後「勉強になったなぁ」と得した気分にもなる。そうはいっても違和感を覚えることもある。
リズムで笑わせてしまう芸人さんのように乗りの良さでその場は納得させられたてしまうが、騙されたとまではいかないが何となく「違和感」を拭いきれずに「もやもや」した後味の悪さが残ることもある。

しかし、この「もやもや」は番組の内容や言説に対する反発に起因するものではない。


「もやもや」の根っこにあるのは「発話の視覚化」である。当たり前であるが文章は文字を視覚で捉えて理解する。それに対して発言は音声であり聴覚で捉えて理解する。
生身の人間が相対して会話をする場合と異なりディスプレイを介する発言や会話は視覚を主にした媒体である。タッチパネルも含めて五感が視覚に統一されると言説が変容して独自の「文体」に「誘導」されていく。


ここからは極私的妄想である。
ディスプレイという平面にすべての情報が視覚に集中される。言説も聴覚ではなく視覚で把握するようになる。ここで言葉と比喩の問題が浮上する。比喩といえば隠喩と直喩だがこれらは意味の類似性に着目した比喩であるが、視覚に基づく比喩もあって、ここに登場するのが「換喩」である。


極私的に尤も関心があるのが「換喩」だがその方向性は、隠喩と直喩とは真逆に作用する。
意味という抽象的なものの類似性を根拠にする隠喩と直喩は知的な営みなのだが、「換喩」は比喩と認識せず通常の言説に溶解されていると誤読されるほどである。
見逃されがちになるのは意味の類似性ではなく近接性に基づくからである。
意味を介さず直接感性に訴えるので比喩という技巧性を隠す煙幕の効果がある。(続く)